2019年06月14日

ビアヘロ 084 令和元年賛美と日本劣等民族凋落への道標 

ビアヘロ 084 令和元年賛美と日本劣等民族凋落への道標 

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太宰府地名研究会 古川 清久


 新元号の発表が行われたのは201941日でした。

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この発表は熊本の平成御代替わり阿蘇山上トレッキングで聴いたのですが、その瞬間、非常に嫌な沈んだ印象を持ちました。

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巷では平成を送り令和を迎える芸人中心の馬鹿騒ぎが行われていますが、少し知恵のある方ならば違和感を持たないはずはないのであって、今後の既に完了した感のある日本劣等民族の行く末と合わせ、暗澹たる雲に閉じ込められた嫌な思いが駆け巡りました。

@  まず、明治〜大正〜昭和〜平成〜令和…という流れは、一つ前の平成の前に昭和の「和」が採用されているにも拘らず、再び令和の「和」が重なっている事が違和感を持つ理由の一つで、同じ文字を重ねないと言われた法則性(所詮はそんなものは存在しないのですが)はどうなったのでしょうか?慣例を重んじる我が国の厳粛さなどと過剰に持ち上げられてきたものも一気に吹き飛んだのでした。

A  もう一つは過去中国の漢籍から選ばれてきた元号に対し我が国の「万葉集」から採用されたなど…と手放しで拍手喝采する注意の無さに対して、唯一日本の未来を託せるはずの真正保守勢力、民族派の中からさえも安直な賛美の声が漏れてくるのですから輪を掛けた馬鹿馬鹿しさに呆れる始末です。

B  さらに加うるもう一つの理由は、令和の「令」の発音の問題です。まず、列島民族はR音(実はL音なのですが)を使いません。それは、尻取り遊びにラジオ、ラッパ、ランプ、ライオン、竜胆(平安期には使用されていたようですが、これも中国の漢方薬紀元の外来語のようです)…と外来語しか出てこない事でも分かるはずで、要は和語にR音(実はL音)は存在しなかったのであって、こんなことさえも万葉学者とかいう振れ込みのただの御用学者が知らないというのも情けない限りで、国学も劣化が極限まで進んでいるようです。元より発音は苦手ですが、歌のアルゼンチン・タンゴをこよなく愛する者としては、日本の和語にR音もL音も存在しなかった…と思う以上、令和が元号である事も、「令」が入る元号が国風を高めるものといった認識も含め全てイカサマであり、国民を甞めきった悪意ある元号制定にしか思えないのです。所詮、令は命令の令でしかなく、命と令は同義語であり同語なのです。一方、元号廃止を叫び、戦後一貫して本質的には米国の手先であり続けた既成左翼勢力、民主勢力…つまり、現在で表現すれば目先の利益のみを追求する親中派も含め、猛獣共が蠢く無法世界に対抗軸を放棄しているとしか言いようがなく、暗雲に閉ざされた亡国への道を突き進んでいるとしか思えないのです。抵抗すべき時に戦わずして和に徹せよ、小さく和して降伏せよとの指示(日米合同委員会)を感じるのは私だけでしょうか?

C  令和の「令」を令息、令嬢の麗しいといった意味で賛美する皮相な向きもあるのですが、副次的な派生語でしかないものを、さも有難い物でもあるが如く拝跪するに至るや辞書でも三番手以降の意味に沿って慰めるなど屈従は極まっているようです。


 私の場合は既成の権力に対する侮蔑と敵意があまりに強すぎて冷静に考えられないのですが、このままでは第二の韓国(ユダヤ金融資本=IMF管理下)に成り下がり、さらにはベトナム、インドネシア・クラスの三流国に引きづり降ろされる事が予測できるだけに、現政権は勿論の事、対抗勢力と称するグローバリスト志向勢力への怒りを抑えられないのです。

 全ては、中曽根国鉄民営化…以来の売国奴小○(それに輪を掛けた恥知らずな竹○)一派による日本の冨の持ち出し売り飛ばし政策(年金の株式運用…)と売国政策、その後の二〜三十年に亘る非正規雇用の一般化、ヤミの外国人労働者の拡大、資本規制解禁による大手企業の大半が外資に支配される亡国政策によって、もはや剥ぎ取る所が無いほどまでにボロボロにさせられているのです。

 とうとう年金が無価値になり始め、もはや、死期を迎える80歳まで働き続けざるを得ない国家に成り下がっているかのようです。私の令和に対する憎しみや敵意は強すぎるため伊藤女史にバトンタッチします。

 この令和問題に関しては、万葉集の専門家でもある伊藤女史がblog「地図を楽しむ・古代史の謎」tizudesiru.exblog.jpで好論を展開されていますので全文をご紹介したいと思います。

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最新稿 「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。

「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日、無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。

遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。

それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。

しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。

それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。

なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

『初春の令月にして、気淑く風和ぐ』

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「
陰暦二月の別名」を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴
そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。

そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり

この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)
これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。

少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「
大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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