2019年06月13日

592 出羽から陸奥への道 K “山形県鶴岡市由良の春日神社”

592 出羽から陸奥への道 K “山形県鶴岡市由良の春日神社”

20180617

太宰府地名研究会 古川 清久


 美しくも単調な越後最北部の海岸をようやく抜け山形県に入ります。正面には鳥海山も見え始めました。

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ここにも加茂地名がありますが、春日神社が鎮座していました。手前も今泉で大幡主系の土地ですね。

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加茂春日神社は、社伝によれば清和天皇の御宇貞観7年(865)大和国奈良春日神社より勧請し、春日大明神と称したと云われています。

奈良県奈良市にある総本社の春日大社は768年に創建されたとされているので、全国に約1,000社あるといわれている神社の中で無題.pngは、櫛引地域にある春日神社が807年に創建されたそうなので、この地域では、その次位に建立された神社なのかもしれません。            


御祭神は 武甕槌之神 經津主之神 天兒屋根之神 比賣神 としています。

この点、同じ鶴岡市でも黒川字宮の下291の春日神社が祭神を 健御雷命 伊波比主命 天津児屋根命 比売命の四柱としていることと多少表記が異なっています。伊波比主命は經津主之神=山幸彦でしょう。

 ただ、基本的な構造としては同じようで、呼称が異なっているだけのようです。

 お分かり頂けるでしょうか、私達は一般的に春日大社の祭神とされている鹿島大神=武甕槌之神が実は阿蘇高森の草部吉見神=海幸彦であると申し上げ続けて来ました。

 それが、黒川では健御雷命としているようで、同時にその孫の世代の崇神天皇(ツヌガノアラシト)を思わせているようです。

勿論、それがこの神社の本来の祭神ならばそれはそれで良いのですが、疑問は、なお、払拭できません。

 それは、もう一つの祭神とされる天津児屋根命も実は阿蘇高森の草部吉見神であるからで、黒川の春日神社では、そこに健御雷命が持ち込まれたために、祖父と孫が共に神座に上げられ二柱とされたように見えるのです。

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こう言った現象が何故起こるか?と考える時、崇神=賀茂別雷=ツヌガノアラシト=気比大神は上賀茂大社に祀られているのであって、この地の地名である「加茂」と無関係ではありえないのです。

 従って、本来、この地には上賀茂系の崇神祭祀か下賀茂系のヤタガス(豊玉彦)鴨玉依姫祭祀が基層として存在し、それに上賀茂=崇神が覆い被さった結果、春日神社が成立しているのではないかと考えられるのです。

 まず、「加茂」は中国の雲南省に追い込められた白族(白山姫)のもたらした地名であり、彼らは雲南省昆明から海南島に移動し黒潮に乗り九州西岸の熊本〜八代に移動して来た人々なのです。

 その証拠に、海南島の南西部の黎族苗族自治県に「加茂」という地名が現存するのです。


リー語 黎語(黎Hlai)は主に黎族が話す言語である。タイ・カダイ語族黎語派(英語版)に属する。もともと文字は無かったが、1957年中華人民共和国語言委員会が「黎語ラテン文字化方案」を考案した。地域としては海南省の黎族・苗族自治県を中心に分布する。

話者は2000年の統計では約70万人(1982年には81万人)いて、「哈(旧称「侾」)」、「杞」、「潤(旧称「本地」)」、「美孚」、「(または「加茂」)」の5つの方言がある。哈・杞はさらに3つの土語、潤は2つの土語に分かれる。うち「哈」が最も多く使用され、黎語の話者のうち58%が「哈」を用いる。「哈」と「杞」、「潤」と「美孚」はそれぞれ類似しており、相互に会話が可能であるが、「加茂(チャマオ)」のみ 

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最近、「老酒保's spaceというサイトがネット上に公開されています。以下…一部を紹介します。

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海南島移民史 投稿日: 2017-05-18 投稿者: laojiubao     

海南島移民史-海南的移民(第八届世界海南郷団聯誼大会2004323日)より抄録。

黎族は海南島の原住民と見なされている。しかし,原住民とされる黎人にしたところで,丸木舟を漕いで大陸から海を渡ってきた海南の第一代移民である。


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●先史時代において,海南島の住民は已に1万人を下らず,黎族、壮族等の民族があった。

●中国歴史上最初の組織的な海南島移民は,漢代に発生している。

50億年前には海南はまだ半島であったが,地殼の陥落,大陸の移動により,南中国海上にこの大陸と分離した海南島が出現した。滄海変じて桑田となり,星斗転じ移りて,この海外に孤立した島嶼にも人類の足跡と歴史が刻まれた。

海南島に原住民はいるか?海南島への最初の移民は誰か?史料によれば,上古時代にはすでに人類がこの海南の島嶼上に生息繁衍し,原始生活をおくっていた。最初に海南に進入したのは我国南方の百越族の一支たる黎族と見なされる。

百越族は黎族の祖先であり,その主要な分布地域は現在の広西、広東珠江三角洲と高雷地区である。海を越えた黎族の先人たちは島に定住し,海南で最初の人口集落を形成した。ここに,大陸を南下し移居してきた黎人は,海南島の第一代の移民となった。

一般に少数民族には支系が存するが,黎族にもその分布により五大支系がある:侾黎、杞()黎、本地黎、美孚(美阜)黎、加茂黎である。一般には本地黎を,海南最古の居民の一支と見なしており,本地黎が海南の原住民とされる。

原住民は土着(土生土長)ではないのか?

生活習俗、愛用する渡海用具、居住する船形家屋や方言などから考証すると,本地黎と大陸の越人とには極めて大きな相似があり,かれらの間の密切な親縁関係を反映している。よって,この原住民が海を渡って南下し,島に地を選んで居住したものであるとの結論が導かれる。

本地黎は最初に海南島に進入した黎人であり,現在,彼らは主に白沙山区に深処し,完整な支系を保ち,未だ分散していない。彼らの分布の軌跡は,島の東、西、北部から五指山に向かって收縮している。その集中地区の中心は黎母嶺と雅加大嶺の間に挟まれた盆地にあり,彼らが他の支系による度重なる圧迫によりここに追い込まれたことが見て取れる。高山深谷が彼らの防守の天然の屏障となり,また彼らが輾転のすえ定居した歴史的淵源でもあろう。あるいはこのような海南の腹地に深処する状況が,彼らを本地黎と自称させ,原住民であるとの意識を形成したのかもしれない。

無題.png 海南島山河map

南下北上,先史移民の双方向の移動軌跡

ドイツの史図博(H.Stubel)という学者は《海南島民族志》なる一書で,精神文化、物質文化および伝説故事に依据して,黎族と印尼古代馬来民族、印支亜大陸各民族とに多くの相似点のあることを指摘して,以下のように論証している:

黎族の中の本地黎と杞黎、侾黎、美孚黎とは異なった系統であり,前者は本島土著の居民であるが,後の三支系は数次にわたる民族移動の浪を経て南洋の海外から筏(浮槎)で北渡し海南島へ進入したものである。

この結論には西洋人のロマンチックな幻想が溢れているが,黎族の先人が馬来種族の特徴を備えていることを,その幾分の証左としている。しかし,重要なことは,多くの専門家学者の認める通り,海南と我国大陸との関係は,何処から見ても,南洋各地とは比べ物にならないことだ。民族移動の過程において,人類の物質文化も同樣に相互に交流伝布することには,なんらの人種や国別の制限はない。だからあるいは南洋諸島のある種族がなんらかの原因で海南島へ渡って来ることもありえようが,しかしそれは数少ない特殊な現象である。海南島の黎族先民が大陸から瓊州海峽を越え,海南へ遷移したものであるという大きな趨勢には,変わりはない。

当然ながら,この種の黎族多源説は,海南の先史時代の民族移動に新たな視点を加え,海島移民が茫々たる大海を南来北進する新鮮な図柄を彷彿させる。

海島先民の活動区域は広泛であり,人数は已に1万を逾える

歴史地理を研究する司徒尚紀博士は海南島の黎族言語を比較してこのように指摘している:

この地の少数民族の言語は,広西壮族および西南の一部地区の民族の言語と同類の「構詞法」を有し,語法には「倒装句」が多い,即ち形容詞や副詞は名詞あるいは動詞の前には置かずその後に置く。

たとえば“有一個女子来過”は,“有女子一個来過”となる。この種の用法は今も当地島民の日常生活用語に見られる。

言語は一個の民族の演化変遷の残した最良の直接証拠であり,また海南黎族と広西壮族との両地の先民が同じく一個の支系に属することの言語上の痕跡である。この支系は海南島の先古の移民中では広西壮族とは同源不同流の“臨高人”とされ,渡海し来り,居住地は主に島の西北部であり,臨高を中心に,儋州、澄邁、瓊山および海口の一部地区にわたっている。また言語、習俗の共通するものは,海を挟んで相望する徐聞の地の居民にもある。彼らが海南へ進入した時期は黎族の先人が北から南へ遷移したより以後であるが,遅くとも西漢の頃である。

かくして,先史時代の海南島の移民には古壮族からの分化もあったのである。これが“臨高壮語”と呼ばれる臨高話が海南のその他の言語と異なった特殊性を有する所以である。

海南最早期の移民と開発の先駆は,つまり大陸あるいはまた南洋群島から来た先人は,陸続とこの島嶼の南北海岸に上陸し,大河の流れに沿って島内各地へ遡り,活動地域に広泛な各類の遺址を残した。一個の遺址は一個の血縁氏族の居地であり,歴史時代の一個の「村峒」に相当する。一般に黎族の一個の「村峒」は約40人であるので,先史時代の海南居民は已に1万人を下らなかったと推計できる。

歴史上最初の組織的移民は漢代

《漢書》記載:「漢元鼎六年,南越を平し,合浦徐聞より入海,大州を得る;元封元年,珠崖、儋耳の二郡を置く」。漢初の二郡の建置は,中国古代封建政権の最初の海南島建立であり,また海南の歴史上における最初の組織的な移民でもある。

当時,全島“合十六県,戸二万三千余”,毎戸6口を以て計算すれば,13.8万人となり,密度は平方キロあたり4人である。これは当時の広東の南海郡、合浦郡の平方キロあたり1.1人と比較すれば,4倍近い。これは面白い現象である,海南先民が広東大陸から渡ってみると,新しい寄居地の方が原住地より人口が数倍高かったのである。この現象は一方では,秦朝による霊渠の建設以降,南北流江(南流江、北流江)から北部湾に至るルートが南下漢人の主要交通路となり,海南島はこれに利を得て,人口の量も密度も自然に広東大陸よりも優ったのである。もう一方では,当時の海南移民は,已に広東、広西の沿海に限られず,早に北方中原の漢人が遷居してきていたのである。その主要成分は漢代の海島への派官、派兵であり,渡海作戦の軍隊の駐屯も多く,そのまま島の移民となった。また商業貿易その他の職業に従事する“善人”もあり,《瓊台外紀》の一書には“武帝置郡之初,已有善人三万之数”の記載がある。王莽の輔政時になると,更に「中原より“罪人”を此に遷徙す」ともある。これらさまざまな階層の移民が,“雑居其間,乃稍知言語,漸見礼化”し,ここに民族交流の拡大が始まった。

後漢の北方戦乱時には,海南は避難先となり,移民も次第に増加した。

“建武二年(公元26)青州人王氏与二子祈、律,家臨高之南村,則東漢有父子至者矣”。

これは海南移民で已に具体的な地域、姓氏、落籍地の記載のある最早のものである。

●戦乱からの遠離,これは海島が難民を吸引した重要な要因である

●宋代に海南への最初の大規模移民が発生し,元明を経て清で高潮に達する

●閩(福建省)、粤(広東省)、桂(広西壮族自治区)が本島人口の主要来源である

●渡海して南洋へ下るのは,明朝に始まる別種の移民現象である


老酒保's space」=「吞み屋の宇宙」とでも言うのでしょうか、好感の持てるサイトであり長々と引用してしまいました。

 話が逸れたかも知れませんが、この地に「加茂」(海南島ではチャマオと発音しますが)の人々で、一緒に列島に入って来た阿蘇氏=黎族=宇治族=多氏に対して、白族の人々定着したのが、黎族苗族自治県の加茂だったのです。

 従って、阿蘇氏とこの加茂の一族とがこの地に存在する事は、列島の開拓史を思わせるもので、同地に存在する加茂神社まで足を延ばさなかった事が残念でなりません。

 実は、海幸彦=阿蘇草部吉見神=天児屋根=藤原の祖神と宗像の市杵島姫との間に生まれたのが大山咋神であり、そのお妃となるのが下賀茂神社の鴨玉依姫であり(これまで玉依姫ウガヤフキアエズのお妃となり神武など4人の御子を産んだなどととんでもない話にされているのですが、下賀茂は私達がお祀りしている玉依姫とは違うと主張されています)、そのお一人が贈)崇神天皇になるのですが、この崇神を本物の神武に仕立てあげたい藤原は無理な主張をしているものと考えられるのです。

 それは置くとしてしても、この地に加茂地名が存在し、加茂神社と春日神社が存在する事には、ヤタガラスと阿蘇系氏族とが安曇族の船で進出している事が見えるのでした。


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境内摂社と思われるものが二つありますが、右の大きな社には上の神々が祀られています。分かり難いのは加茂神社の横の石峯神社です。恐らく大山祗と思われますが、ここでは触れません。

その奥にある境内摂社には、鹿島神社、大神宮、八坂神社といった現在の春日神社の在り様にそぐわなくなった神々が慎重に祀られているようです。

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その舞台裏が少し見えますので触れておこうと思います。

 そもそも、春日神社とは権力を手に入れた藤原氏(阿蘇高森の草部吉見系)が一族の軍神(守神)として、常陸の国まで進出していた鹿島大神=武甕槌=海幸彦=支那ツ彦=風神を回収したものとされていますが(現在鹿島神社には跡宮があります)、実は当時の吉見さんの神格はそれほど高くはなく、スサノウと大山祗の娘の神大市姫=ミヅハノメ(コノハナノサクヤの姉)の間に産まれた支那ツ姫=伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメ(後にニギハヤヒ=山幸彦のお妃となる)とその母神たる神大市姫(ミヅハノメ)こそが本来の春日大神になるのです。

 ただ、熊襲を倒して権力を手にした藤原にとっては、熊襲=大山祗(実はトルコ系匈奴)が疎ましく、結果、自らが表に出る形で成立したのが現在の春日神社と考えられるのです。

 従って、この境内摂社に鹿島大神と八坂神社(スサノウは豊受大神の父神)そして大神宮(天照とトヨとの間を繋ぐ伊勢神宮代行)の豊受大神が粗末にされる事無くヒッソリと祀られているのではないでしょうか?

百嶋由一郎氏の音声CD、神代系譜DVD、手書き資料…などを必要とされる方は09062983254まで連絡を

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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