2019年05月03日

572 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社”

572 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社”

20180509

太宰府地名研究会 古川 清久


2800キロにも及ぶ「糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅」の帰路も連休のラッシュの中、中央高速の恵那トンネルを通るのはもうこりごりで、帰路も一般道中心の旅をすることにしました。

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このため、諏訪市の西の長野県塩尻市まで移動し、木曽川沿いに旧中山道(中央本線沿い)中津川、恵那市ルートで琵琶湖を目指す事にしました。

従って、帰路に参拝した神社も糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “下塩津神社”…として書かせて頂きます。

途中、何社も目に入ったのですが、連休中の移動であり、次回以降にゆっくりと見せて頂く事とし、まずは岐阜まで安全に移動する事に集中しました。

ともかく中山道も百数十キロもの下り坂が続く比較的直線的な国道を走り抜ける事になり、何とか岐阜に辿り着いたのは夜も10時を廻った頃でした。

順番は前後しますが、早朝から岐阜市の隣の大垣市の周辺の神社を何社か周り、前回、近江散歩で取り上げた琵琶湖の北端にある塩津神社の兄弟神社なのか?前回、参拝できなかった鹽津神社を訪ねることにしました。

既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)538に於いて西浅井町塩津浜の塩津神社を取り上げました。


538

近近江散歩 A 塩津神社 “滋賀県西浅井町塩津浜”


近江散歩(447日)の初日の安曇川では、若宮神社(高良玉垂命と神功皇后の長子=仁徳天皇を祀る)を二社、大荒比古神社、大国主神社(五十猛神社)などに訪問し、早々にも主たる目的地である長浜を目指しました。

足早な理由は前回の近江調査で訪問できなかった塩津神社に行きたかったからでした。

 場所は戦国期の浅井、朝倉、徳川、織田の戦いで著名な賤ヶ岳の合戦で著名な賤ヶ岳の北西に位置する湖岸ですが、実は同名の下鹽津神社(滋賀県長浜市西浅井町集福寺455)があるのですが、こちらは、まだ訪問していない事からまたの機会にまわすとして、まずは、枝垂桜が美しい塩津神社をご紹介する事にしましょう。

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塩土老翁神とは山幸彦(実はニギハヤヒ=猿田彦)が釣針を失い途方に暮れている時に現れ、龍宮に行き龍王に逢う事を勧めた神として知られていますが、実は博多の櫛田神社の大幡主の事であり、ヤタガラス(実は龍王なのですが)の父神でもあるのです。

縁起は読み辛いでしょうから神社庁の由緒をご覧ください。

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御祭神 塩土老翁神 御神紋 三ツ巴

御由緒 当社創立の年代は詳かではないが、伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。玉朝時代以降縉紳顕門の来遊もあり、当社を崇敬せられたのである。わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや、数次参籠して霊示の随に、誉田別尊を本社境内に、瀬織津姫尊を境外に奉祀した。文和元年、足利高氏の子義詮、後光厳帝を奉じて当社に参拝され当地の熊谷兵庫直高、治左衛門尉直久等当社を崇敬し、社殿修復に尽くしたが元亀元年火災に罹り殿舎鳥有に帰した。嘉永年中伏見稲荷神社の分霊を勧請して、相殿に奉祀し、居成明神又稲荷神社とも称した。明治5年稲荷の神霊を境外地字清水に奉遷し、社名を塩津神社と復称し、同9年村社に、同17年、郷社に列した。延喜式内未定社。同43年神饌幣帛料供進神社に指定された。尚、当社は中葉「海北之宮」の別称があった。

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近江散歩で取り上げた塩津神社と兄弟の鹽津神社(親子かも知れませんが…?)を見ることができるのは楽しい限りです。

 普通は、塩津神社より奥にあるのですから、こちらが元々の親元の神社のような気はするのですが、十キロほど奥に入った西浅井の集福寺という集落は、高架となった鉄道橋(湖西線なのでしょうか北陸本線なのでしょうか)の奥にあり、そこに鹽津神社もあるのです。

 実際、西浅井の水田地帯も、かつては琵琶湖の浅い入江であったはずで、だからこそ、浅井、朝倉の浅井なんだ…などと好い加減な想定をしていました。

 いずれにせよ古代の海岸線を考える時、山に囲まれた安全な集落に鎮座するものこそが元宮の在るべき場所だったはずなのです。

 しかも、「沓掛」とは古代官道の痕跡地名であり、北陸、日本海へと貫ける要衝の地だけにその重要性は語り尽くせないところです。

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鹽津(下塩津)神社は集落の中心部にありました。付近には周りの山々から滲みだす清冽な水が滔々と流れています。

 これだけでも、見る価値のある神社です。

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まず、目についたのは五七の桐紋で、この神社が只ならぬ存在であることは明らかです。

 五七は天皇家の一族、三五は天皇家と姻戚関係を持つ一族が使う神紋なのです。

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神社の解説では不十分であったため、敬愛する「玄松子」氏に登場願いました。


境内の右端に社殿があり、本殿は覆屋の中にあるようだ。本殿の左横に、小祠・白山社。その横に二棟並んだ神明社がある。創祀の由来は、社伝によると、応神天皇が、皇子の頃、塩土老翁の託宣を得て、即位の後、大雀命・宇遅能和紀郎子命の二皇子にこの神を崇敬するように命じた。

そこで、二皇子は、淡海の集福蘇翁に命じ、仁徳天皇三年四月、浅井郡下塩津郷集福寺小松山小稲森に社殿を創立し、塩土老翁を鎮祭し、下塩津神社としたという。

醍醐天皇昌泰二年(899)、今出川大納言の二子で、天台僧の大法深が当社の社僧に任ぜられ、信仰していた熊野三所権現を勧請し、伊邪那岐命・伊邪那美命を配祀した。

社殿には、三つ巴・桐・菊の3種の紋が付いていたが、案内板に、神紋は、菊と桐とある。このように神紋を記載してくれるとありがたいな。

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どう見ても、塩津神社の元宮がここではないかとの思いを消せません。

 この素晴らしいばかりの鹽津神社を見ることができた事に感謝したいと思います。

 ヤタガラスの父神=塩土老翁=博多の櫛田神社の大幡主を奉斎する白族+安曇族が展開した琵琶湖の志賀島の頭目の一族が居地としていた地だったのではないかと思うのです。

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大幡主はあまり表に出てこられません。単独で祀られる神社は極めて珍しいとしか言えません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


上の神代系譜をじっくりご覧頂きたいと思います。百嶋先生は、イザナミはイザナギと別れ、大幡主のお妃になっておられると言われていました。その後の名は那智大社のクマノフスミノミコトなのです。

してみると、イザナギと別れたイザナミが祀られているとも言えるのかも知れません。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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