2019年04月28日

570 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

570 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

20180504

太宰府地名研究会 古川 清久


 二年前は新潟県の上越市から長野、千曲、上田、小諸、佐久から一気に北関東に入り茨城県北部の常陸太田を拠点に、埼玉、群馬、福島、千葉、一週間ほど神社探訪を行った後、山梨に戻り甲府のぶどう寺やその一帯の調査から山中湖村のこの別荘にやって来て諏訪から中央高速で関ケ原に向かい九州に戻りました。今回は富山を抜け新潟の糸魚川で奴奈川神社、天津神社を見せて頂き、姫川沿いに小谷、白馬、大町、安曇野、松本、塩尻、諏訪、甲府へと入り天津司神社を見せて頂いたのですが、身延山久遠寺は付け足しでしかなく、実質的には糸魚川の奴奈川神社、天津神社と甲府の天津司神社を見ることが旅の目的でした。

 結果、山中湖村に到着してからはGWの喧騒を避け、別荘に閉じ籠り今回の十本目のブログを書いているところです。別荘暮らしもそろそろ飽きて来ましたので、少しずつ西に向かって移動しようかと考えているところですが、切が良いように、まずはこのブログを書き上げたいと思っています。

無題.png

確かに上越から長野に向かうルートは平坦で自然に長野まで進出できるのですが、千曲、上田、小諸、佐久まで進むと、北関東にも、山梨にも入るのはかなりハードになります。

しかし、諏訪や山梨でも甲府に入るとなると、糸魚川から姫川の大峡谷を通るとしても、進入路としてはこちらを採用したのではないかと思えます。

そこで考えるのですが、少なくとも、始めに諏訪、甲府、山梨に入った人々は、糸魚川ルートを通ったのではないかと思うのです。

今回は、高速道路ではなく、この辺りを実際に通り古代の実感に近いものを得たいと言うのも目的の一つでした。恐らく糸魚川の奴奈川神社と天津神社とが甲府の天津司神社と関係があるのではないかなどとはどなたも考えておられないと思うのですが、故)百嶋由一郎氏の手書きメモを見るとどうしてもそのようにしか読み取れないのです。

 つまり、私宛に送られてきた糸井川の奴奈川神社、天津神社と甲府の天津司神社に関する資料は一緒の封筒に入れられていたからでした。

 当時の事ですから、恐らく悪路を乗り越え(私と百嶋先生とには25年の年齢差があったのですから)糸魚川から甲府を目指されたのではないかと思うのです。

 私の場合は、パソコン、インター・ネットに調理器具まで載せ休憩も車中泊も自由にでき、ブログ作成もできる環境で移動するのですが、恐らく多大な出費をされながら小さな車で調べ廻っておられたのだと思うのです。

 先生は紀元165年前後とされていますが、本当の神武天皇(神武僭称贈る崇神は後世の高良玉垂命と神功皇后とが夫婦であった時代で全く別で、当時、崇神は天皇でも何でもなかった)、その腹違いの姉である天照大御神=大日孁女神、金山彦、大幡主、山幸彦(経津主命)、海幸彦(草部吉見神=ヒコヤイミミ)、海幸のお妃となる市杵島姫(奴奈川姫)…などと共に列島の調査のための巡行を行ない、実際に甲府まで踏み入っている言われているのです。

 その巡行の痕跡こそこの甲府市の一角に奇跡的に残された天津司神社の天津司舞だったのです。

無題.png

昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)

市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

無題.png
無題.png

甲府の地に御巡幸で立ち寄られた列島の開拓神(これこそが本来の開闢神)の伝承を今に留めているものが天津司舞になるのです。

無題.png

百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

無題.png

白馬村付近から望む北アルプス 昇天したとされる奴奈川姫と海幸彦も含め巡行の一行も見たのです


 この神武巡行の痕跡は、天草〜筑豊〜広島湾〜福山〜尾道〜岡山(阿仁神社)…秋田の男鹿半島の赤神社辺りまで延びています。

 大半は船による移動ですが、中には甲府に駆け上がったものもあり、同じく糸魚川に戻り、海路、日本海沿いに男鹿半島辺りまで進出したのではないかと考えています。

 今年の秋にでも男鹿半島の赤神社(八郎潟周辺に数社ありますが、草部吉見神を祀るものです)と併せ青森の高良神社(4社前後あるようですので)を確認する旅に出るのではないでしょうか。

 今回の旅は、三社詣によって古代の神武巡行の痕跡を確認するものでした。

 古代に於いても、船で移動する事はさほど難しい事ではありませんでした。

 ただ、何故、山上楽園とも言うべき甲府の地まで目指そうと思ったかは不明です。

 もしかしたら、夏尚白き白馬の大山脈を見たかっただけなのかもしれません。

 いずれにせよ、糸魚川の奴奈川神社、天津神社、甲府の天津司神社は貴重この上ない神社なのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:12| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: