2019年04月01日

561 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 @ “甲府ィお参り願ほどき”

561 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 @ “甲府ィお参り願ほどき”

20180430

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 538近江散歩 @ 〜“滋賀県安曇川町”以下20本近いブログで書いた通り、今度は3月末から4月上旬に掛けて、近江、京丹後、養父、朝来のトレッキングを(一部3人)で行いましたが、大型連休前後のスケジュールが空いた事から、懸案だった糸魚川の天津神社、奴奈川神社、それに甲府市の天津司神社の調査に入る事にしました。

今回も一般道を基本に移動する事にしましたが、王司パーキング(山口県)、鳥取市、魚津市(富山県)、韮崎市(山梨県)で車中泊し、片道四泊五日1500キロでようやく富士山正面の山中湖湖畔にある友人(T氏)の別荘に到達しました。

川崎市から高速で駆けつけてくれた学生時代の親友と合流し、山中湖畔での一週間ほどの滞在が始まりました。

眼前のには別荘正面には山中湖と富士山が見えています。

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友人は部屋を明け渡すためにわざわざ出て来てくれたようなもので、翌朝には帰って行きましたが、以後、別荘を独り占めに、調査してきた神社のブログを書き始めることにしました。

まだ、エンジンが掛からないことから、始めはお寺のブログを書くことにしました。

今回は山梨県でも一番南の端の身延の巨摩郡に入る事も目的でした。

身延と言えば、日蓮宗総本山 身延山久遠寺になります。

個人的には念仏門徒衆の西本願寺の者であって、法華一条の宗旨違いではあるのですが、一度は日蓮宗の総本山へのお参りをすることにしたものです。

無題.png無題.png

正面参道は三百段近い急傾斜の石の階段ですが なんとか15分ほどで登り切りました


無題.pngさて、故)百嶋由一郎氏は、“曹洞宗、日蓮宗、天理教教団…は全てイスラエル系、ヘブライ系です”と話されていました。

すると、高句麗系が入ったとされる南巨摩郡の「巨摩」が高麗であり、旧北巨摩郡と併せ高句麗とさえ無関係ではない事までが見えてきます。

不思議に思われるかもしれませんが、高句麗は紛れもないヘブライでもイスラエル系の民族なのです。右は高句麗の紋章(三足霊鳥=ヤタガラス)。

恐らく駒ヶ岳も馬の意味ではないのではないでしょうか…?

少なくとも、日蓮は間違いなくイスラエル系の人だったと認識されていたようです。

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今回、この問題にはこれ以上は踏み込みません。

 単に旅の合間に法華の総本山の一つに足を踏み入れたと言う事を書きとどめたかっただけの事です。

 さて、サブ・タイトルを“甲府い〜お詣り願解き”としました。

 例によって落語の話にします。

多分、旅の疲れからきついリポートを書きたくないだけなのかも知れません。

 身延に向かう途中には富士川町に「鰍沢」(カジカザワ)があり、故)三遊亭圓生の落語に「鰍沢」があったことを思い出します。


無題.png江戸から身延山(山梨県南巨摩郡)へ父親の骨を納めに行った新助。

帰り道、鰍沢へ向けて身延山を出ますが大雪で道に迷ってしまいます。

こんなところで野宿をしたなら死んでしまう、どこかに人家はないかと南無妙法蓮華経を唱えながら山中をさまよっておりますと、はるか向こうにチラチラと灯りが見え、それを目指してようやく一軒のあばら家にたどり着きます。

応対に出たのは身なりは貧しいものの口元の締まった輪郭のいい年頃三十六七の女。良い女だが、のどから襟元にかけて月の輪型のアザがある。

女は、こんな所だから食べる物もないが、寝るだけならと家に入れてくれます。

囲炉裏にあたって話をしていたところ、女が吉原熊蔵丸屋の月の戸という花魁だったことがわかり、新助が連れと二人で熊蔵丸屋に行き、新助の相方に出てもらった。すぐ裏を返そうかと思ったが親父がうるさく、ようやく父親の留守に熊蔵丸屋に行ったところ、花魁は心中をしたと・・。

女は、心中をしそこねた。これはその時の傷だと新助に言います。

新助は胴巻きから二両を取り出してあの時の礼も兼ねてと女に渡し、女は卵酒を作り新助に差し出します。

下戸なのだと言いながら酒を飲んだ新助、体が暖まり眠くなったと言い、次の三畳間で眠ってしまいます。…

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そして、有名な圓生の「甲府〜い」


妙なタイトルです。日蓮宗がらみの噺ですね。

甲府育ちの善吉。早くから両親をなくし、伯父夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山に断ち物をして願を掛け、上京してきたが、

生き馬の目を抜く江戸のこと。

浅草寺の境内で巾着(きんちゃく)をすられ、無一文。腹を減らして市中をさまよったが、これではいけないと葭町(よしちょう)の千束屋(ちづかや)という口入屋(くちいれや)を目指すうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆が袋だたきにしようというのを、主人が止め、事情をきいてみると、これこれこういう訳と涙ながらに語ったので、気の毒に思い、ちょうど家も代々法華宗、これもお祖師さまの引き合わせだと、善吉を家に奉公させることにした。仕事は、豆腐の行商。給金は出ないが、商高の応じて歩合が取れるので励みになる。こうして足掛け三年、影日向なく懸命に「豆腐ィ、胡麻入り、がんもどき」と、売って歩いた。

愛想がよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、放っておくと虫がつくから、早く婿を取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのを哀れに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪ざっぽ持ってこい」と、大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分風情がと遠慮しながらも、結局承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。土地を二か所も買って、居付地主。そのうち、年寄り夫婦は隠居。ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所へは一度も帰っていないので、両親の十三回忌と身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしいと、申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度してやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若だんな、どちらへお出かけで?」と聞かれて善吉が振り向き「甲府(豆腐)ィ」お孝が「お参り(胡麻入り)、願ほどき(がんもどき)


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 のんびりとした良い下げであり落ちですね…。

 鰍沢〜身延と走ると、江戸落語の舞台を実際に臨場感を持って認識でき感慨が深まります。

 甲府、山梨からの出性(デショウ)をもった人々が江戸に名古屋にと進出した事が浮かんで来ます。

 実際、豊かな水田がない甲斐の国の事、皆勤勉で全てに機用で何でもできなければ生きていけない国柄で、石垣が積め、土木が出来、木材を操り、炭を焼き、狩猟もできる、牛馬も扱えると言う頑張り者が江戸、名古屋にと供給され続けたのでした。

 そして、傾斜地しか無いような谷地(沢地)に生きてきた人々の環境が実感できたのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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