2019年03月03日

552 近江散歩 N 気比神社再訪 “兵庫県豊岡市”

552 近江散歩 N 気比神社再訪 “兵庫県豊岡市

20180424

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に近江散歩からの帰路であり、タイトルとの齟齬が生じている事は承知していますが、丹波、丹後の調査を企画した女性メンバーでブロガー「地図で知る」(伊藤女史)の二人行に合流させて頂いた以上、近江以外は彼女たちの企画とチョイスに従うばかりです。

 温泉には入ったものの相変わらず車中泊を続ける私は既に兵庫県豊岡市内から気比宮に向かいました。

それに比べ京丹後市の久美浜温泉に泊まられた御一行と城崎温泉正面を流れる円山川の右岸の絹巻神社で合流しました。

 気比地区はともかく、気比宮は普通には容易に見つけられない場所にある事からご案内する事にしたのでした。

無題.png

まず、良く混乱しますので整理しておきますが、福井県敦賀市の気比神宮(百嶋神社考古学では贈る崇神天皇ことツヌガノアラシト)があります。

 一方、円山川右岸の気比川合流部の気比宮は単なる地名の移動でしかなく、この気比は贈られる崇神とは一応無関係と考えています。これについては、まだ、確信が持てないでいますが提案はしておきます。

 一方、円山川の支流に出石川があり、出石地区と出石神社がありますが、この出石神社は播磨国風土記の大国主系とスサノウ系の衝突の結果、敗北したスサノウ系が出石に閉じ込められたといった印象を持っています。

 無題.pngここはスサノウ系の神社と理解していますが、半島からアカルヒメを追ってきたスサノウ(アメノヒボコ)が入って来たのが気比であり出石だったのではないかと思っています。

 一方、古代史では知られたアカルヒメ(実は大幡主の娘でヤタガラスの妹)が逃げてきた姫島(大分県国東半島正面姫島村)の姫古曽神社では贈る崇神の話に仕立てられているのです。

 どうも、偽装か混乱が起こっている様に思えてなりません。

 右は大分県の国東半島正面姫島村の比売語曽社の縁起です。

 この話だと同社の祭神は贈る崇神の縁者と言う事になりそうではないですか?

 まあ、「記」「紀」を信じるかの話もあるのですが、スサノウ(アメノヒボコ)はアカル姫を追い姫島までは追ってはいないのです。

 さて、豊岡の気比の宮です。私はアメノヒボコの上陸地と考えています。

 ここは非常に印象深い所です。何故か心が和むような古代の汀線を思わせる場所です。

無題.png

気比神社 カーナビ検索 兵庫県豊岡市気比286


祭神 五十狹沙別命 配祀 神功皇后


社伝によると、和銅二年(709)の創祀。敦賀にある氣比神宮と同様に、伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし神功皇后を配祀する神社で、式内社・氣比神社に比定されている古社。
一説には、神功皇后が敦賀から穴門へ向う途中若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、この地から円山川を遡り、
粟鹿大神夜夫大神伊豆志大神小田井縣大神を詣でた後一時、この地で兵食を備へたという。
ある夜、
越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」神功皇后は住吉三神を船に祀り御食を五十狹沙別大神に奉って、この地を気比浦と称するようになったという。 社殿の右前に、境内社の稲荷社が祀られている。気比川を迂回して当社へ向う途中、当社から北へ少しの場所に、銅鐸出土地の史跡がある。道端にある岩の根元に、案内があるだけだが。出土した銅鐸は、現在、東京国立博物館にあるようだ。

敬愛する「玄松子」による


−「兵庫県神社庁」−


『国司文書 但馬神社系譜伝』に、田結郷 気比神社 城崎郡気比浦鎮座 

祭神 五十狹沙別命・仲哀天皇・神功皇后

人皇十四代仲哀天皇の二年、神功皇后は道を北海にとり、穴門国に至るの時、粟鹿・養父・出石・小田井の諸神を参詣し、この浦に留まりたまう。一夜(ある夜)、越前筍飯(気比)宮に坐す五十狹沙別大神夜の夢に見(まみ)え、皇后に教えて曰く、「船をもって海を渡るには、住吉大神を祭るべし」と。

皇后教えを奉じ、住吉の三柱大神を祭り、御[食丁]を五十狹沙別大神に奉る。故に気比大前神の十三世孫 気比彦命は、この三神を斎きまつるなり。

無題.pngによる


気比神社は北陸一帯に数十社確認できますが、今のところ実体が掴めずにいます。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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