2019年02月01日

ビアヘロ076 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 

ビアヘロ076 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 

2018806

太宰府地名研究会 古川 清久


元)古田史学の会事務局長でもあり、久留米大学の公開講座でも私と一緒に講演して頂いた(「釜蓋」マンタ+「倭人も太平洋を渡った」)大下隆司氏が、山浦 純氏と共に『「日出処の天子」は誰か』を出版されました。

ここにそのご努力に敬意を表すると共に、併せて広くご紹介させて頂きたいと思います。

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新刊案内: 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房)

折しも、太宰府地名研究会協賛としてメンバーの伊藤正子女史による「聖徳太子」を探る小規模講演を熊本地震の最大被害地の一つである熊本県西原村で始めたばかりでしたので思いもひとしおでした。

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勿論、聖徳太子と「日出処の天子」とは同一ではないのですが、それは相互の研究に従うべきでしょう。

 では、新著の概要をお知らせします。


 聖徳太子はすでに一万円札から消え、教科書からも消えようとしています。それでは『隋書』に記された「日出処の天子」とは誰だったのでしょう、古代史学会はその取扱いに困っています。

【謎だらけの日本の古代史】

世界の歴史はシュリーマンのトロヤ遺跡発掘以後、科学技術を歴史研究に導入することにより、多くのことが解明されてきました。最近ではアフリカなど各地の古い地層から見つかった骨のDNA分析により、5万年、10万年前に住んでいた人類の動きもわかるようになってきました。日本でも、放射性炭素14年代測定法の導入により、縄文人は世界に先駆けて1万6千年前から土器を作っていたことが判明しました。

ところが日本国成立のカギをにぎる古墳時代に入ると、急に日本の歴史は「謎だらけ」になってしまいます。この時代の解明には全国各地にある大型前方後円墳の調査が不可欠です。しかし主要な大型古墳は天皇陵・陵墓参考地に指定されて立ち入り調査すらも許されない状態です。歴史を調べる手法として、それまでの時代の解明に使われていた科学的手法が、急に使えなくなるのです。

それでは、古代史・考古学者はどのように日本の歴史を組み立てているのでしょうか。 “大和朝廷が日本の始まり”とする明治以降の国の基本方針から逸脱することは許されないためか、未だに考古出土物が見つかると、“これは『日本書紀』にある大和のどの天皇に関係するもの”と、すべて大和に結び付けて解釈をしています。

さらにほぼ同時代(3〜7世紀)に作られた「魏志倭人伝」や「宋書倭国伝」、「隋書国伝」など中国史書に記された地名・人名などを無理やり大和朝廷に結び付けています。同時代に記された一級史料を無視して、すべての歴史解釈を後世(8世紀)に作られた『日本書紀』をベースにして行っているのです。そして、その解釈がうまく出来ないと、それは謎です、と片付けます。

このため、世界のどの地域でもほぼ歴史が解明されている、わずか千数百年前の時代すら日本は「謎だらけ」になり、きっちりした歴史年表も作れない状況になっているのです。

“日本列島は万世一系の天皇家の統治するところ”とする思想をもとに作られた『日本書紀』に正しい歴史が描かれているのでしょうか。『日本書紀』の記述が違っていれば、日本国の成立はいつまでも謎につつまれたままです。

【本文の構成】

 『「日出処の天子」は誰か』は、特定の先入観や史観によりかかることなく、史書、金石文などを丁寧に読み解き、これらの史料が客観的に語ることに耳を傾けるという姿勢に努めました。そして、最新の科学的成果と知見を取り入れて、史料に記されている事実をできるだけ分かり易く語ることに心がけました。 

序章では、中国史書に描かれた「倭国」の興亡と歴史から抹殺された経緯、「日本国」の誕生を簡単に述べ、「日出処の天子」は「倭国」に実在した阿毎・多利思北孤であることを示しました。

第一章では、聖徳太子を巡る様々な謎を日本・中国の歴史書を比較検証し、かつ法隆寺にある釈迦三尊像の光背銘や古文書の分析から、聖徳太子の数々の業績が実は「倭国の天子」阿毎・多利思北孤のそれの盗用であることを述べました。

第二章では、「金印」授与の委奴国王や、女王「卑弥呼」の「邪馬台国」の所在地について検証します。また、中国史書に倭国の記述のない「謎の四世紀」については、韓国の史書を基に概観します。

第三章では五世紀の倭の五王の時代の日本列島、そして畿内で起きた武烈王朝から継体王朝への政権交代を取り上げました。

第四章では、六世紀の朝鮮半島の状況と九州王朝の誕生、全盛期を迎えた多利思北孤の時代、その後の朝鮮半島の同朋を救うため総力を上げ戦い、壊滅的敗北を喫した倭国の様子を示しました。

第五章では、乙巳の変、壬申大乱、白村江の戦いを通して天皇家が次第に権力基盤を固める一方、白村江の戦いで大敗し、衰退へ向かう「倭国」について述べます。

終章では、「倭国」滅亡と『万葉集』の歌に隠された「倭国」の風景、そして九州王朝の舞楽「筑紫舞」について語り、現代に蘇える「倭国」を描きました。

また、コラムにおいて、私たち現代人が知らされていない「倭人伝の短里(1里=約75m)」「二倍年歴」「太平洋を渡った縄文・弥生の人々」など、史料から見えてくる未知なる古代の姿を点描してみました。

さらに末尾には、古代日本において、中国・朝鮮と交渉していたのは九州の「倭国」だったということを、明確にするために、大和の近畿天皇家と北部九州の倭国・九州王朝を対比した年表を付しました。

 本書を読まれた方は、これまでの通説や学校で習ったこととあまりにも違う古代史像が提示されていることに驚かれると思いますが、これが中国史書等が証言している古代日本の真実の姿なのです。

701年に滅んだ倭国の痕跡は皆さんの近くにある古い神社の由緒のなかにも「九州年号」などに見出だすことが出来ます。是非この本を読み、「古代に真実を求める」旅に参加下さい。そして若い人たちに、わたしたちの祖先が残した素晴らしい足跡を伝えて下さい。

                               2018年8月大下隆司記

なかった別冊A

「日出処の天子」は誰か

よみがえる古代の真実

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2018年8月10日 初版第一刷発行

著者  大下隆司

    山浦 純

発行所 (株)ミネルヴァ書房

【目次】

はじめに

序 章 王朝の交代、「倭国」から「日本国」へ

 1 古代日本の姿 2 中国史書の中の「倭国」 3 日出処の天子は誰か

第1章 聖徳太子と多利思北孤

 1 日本人にとっての聖徳太子   2 聖徳太子をめぐる謎 

3 「隋書国伝」の多利思北孤 4 法隆寺の中の多利思北孤

第2章 金印・卑弥呼、弥生から古墳時代へ 弥生時代四世紀

 1 金印の時代 2 倭の女王卑弥呼 3 古墳時代の始まり

第3章 倭の五王と近畿天皇家 五六世紀

 1 倭の五王 2 「記紀」の天皇は倭の五王か 3 金石文解釈の疑問

 4 大和の王朝交代

第4章 九州王朝の成立から衰退へ 六七世紀

 1 六世紀、朝鮮半島の攻防 2 九州王朝の成立 3 多利思北孤の時代

 4 白村江の戦い

第5章 日本国の誕生 七八世紀

 1 大化の改新 2 壬申の乱 3 日本国の成立

終 章 よみがえる九州王朝

 1 疲弊にあえぐ倭国 2 万葉集の謎 3 秘かに伝えられた幻の筑紫舞

◆コラム

 @「一寸千里の法」と短里――古代中国の天文算術書『周髀算経』

 A 二倍年暦について

 B 太平洋を渡った縄文・弥生の人たち

 C ヨーロッパに伝えられた「九州年号」

 D「君が代」は九州王朝の賛歌

 E『古事記』と『日本書紀』

あとがき

参考文献

■資 料

 1  「魏志倭人伝」(紹熙本三国志)古田武彦による読み下し文

 2  「隋書国伝」原文(付古田武彦による読み下し)

 3  日本列島(倭国・九州王朝と近畿天皇家)の歴史年表

 4  倭国・九州王朝と近畿天皇家の系図


人名・事項索引

系図・史書・写真・史料・図・表 一覧


大下グループのブログへは、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)のリンクから「古田史学の継承のために」にアクセスして下さい。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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