2019年01月02日

531 但 馬 (上)

531 但 馬 (上)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


宗像大社の辺津宮は宗像市大字田島にあります。地図を見ると深田にあるようにも見えるのですが、同神社の公式のホームページを見ても、「 福岡県宗像市田島2331 」と出てきますので、やはり田島で良いのです。

本稿は五〜六年前に書いたもののこれまで非公開のままにしていたものです。

その後何度となく但馬に入り長期間の調査を経てようやく公開できるところまで漕ぎ着けました。

当時、本稿を故)百嶋由一郎氏にお見せし、多くの付箋を頂き添削を受けましたが、それを理解できるまで時間を要したのでした。今般、新たに編集を加え公開する事にしたものです)。

このため、初期の原稿にかなりの手を入れたものになりましたが、基本的なエッセンスは変わりません。

まず、宗像大社周辺の地図を見て頂きますが、鐘崎、黒崎、岡垣、田島という地名が確認できます。

無題.png

地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


現在、普通に参拝している宗像大社の辺津宮は海岸から二キロほど後退した場所にありますが、それは、陸化が進んだからであって、この神社が成立した時代には相当奥まで海が入っていたはずです。

つまり、田島と呼ばれる沖の小島の形状もあり、そこに宗像大社の原形が存在していた可能性はあるのです(ただ、呼子の田島神社が起源かも知れません…)。

ここで玄界灘沿いに西に目を転じると佐賀県の東松浦半島に呼子(唐津市)があります。

秀吉の朝鮮出兵のための出船基地であり背後の台地に名護屋城が築かれたことで良く知られていますが、この呼子の港に壁のように蓋をし、湾内を穏やかに鎮めている加部島(これも恐らく壁の意味でしょうが)に鎮座するのが、式内社(旧国幣中社)の田島(田嶋)神社(たしまじんじゃ)です。

確認するまでもないことでしょうが、祭神は田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊であり、宗像大社に祀られる沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神と完全に対応することから、この田島神社の名は宗像大社の辺津宮が鎮座する宗像市田島から付されたものであることが容易に推察できます。

ついでに言えば、唐津市の「湊」「岡」も呼子の田島神社から船で行けば直ぐのところですから、宗像の「神湊」から付されたものの可能性なしとはしないでしょう(ベクトルが宗像⇔呼子はなお不明)。

無題.png

地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


引き続き福井県敦賀市の地図をご覧頂きたいと思います。

宗像市の「鐘ケ崎」という地名が、朝倉氏の居城金ヶ崎城があった敦賀市の金ヶ崎になっており、付近の「黒崎」や「岡」という地名が、宗像から敦賀にも移動し順番に並んでいる事がお分かりになったと思います。

 してみれば、その中間地点の兵庫県の但馬地方の「但馬」も呼子の壁島の田島神社の「田島」や宗像大社の大字「田島」が地名移動(当然にもその一族も移動しているのですが)したものである事が分かると思います。甘木朝倉周辺の地名が奈良に移動しているなどと騒いだ学者がいましたが、それどころではないのです。この、大字、小字レベルではなく、「但馬」という旧国の地名にまで高まっている事は、その事だけで、安曇族(鐘ケ崎は宗像族ではなく安曇族であるため)、宗像族という九州王朝の海軍を支えた人々が大挙して日本海沿いに移動している事がご理解いただけるのではないでしょうか?

 お疑いになる方もおられると思いますので、もう少し申し上げれば、兵庫県養父市の市役所の傍には「朝倉」という大字が残り、「朝倉」という交差点までがあります。

さらに山に向かえば、「天空の城」で知られた朝来市がありますが、これも朝倉氏にちなむ地名であり、事実、養父市では朝倉氏が弟の日佐氏に養父一帯を渡し東の敦賀に進出した拠点であったとされています。

 どうも、安曇族、宗像族を海軍とすれば、この「朝倉」地名を持ち込んだ人々こそ九州王朝の陸軍を支えた氏族だったのではないかと考えています。

無題.png

さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社同様、稀人の間のような扱いを受けたものがあり、百嶋由一郎氏からは本当の祭神としては大国主命が祀られているとお聴きました。

無題.png

事実、隣の岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野=テノ、タノという地名があります)には大国主神社がありますが、参拝殿が西(つまり宗像大社の方角)を向いていたのが印象的でした。

無題.png

“宗像の主神は大国主命である”と教えてくれたのは、六十数年間神社を調べ続け近年亡くなられた八十四歳の百嶋 由一郎氏でした。氏は以前から、「神功皇后を主祭神として祀るとする宮地嶽神社に祀られるワカヤマトネコヒコが四王寺山に降臨し、いわゆる欠史八代として架空とされた九州王朝の第九代開化天皇として即位した。」(『高良山神宮秘書』から)とされています。

さて、この宗像大社の公式ホームページには、


高宮は、社家の説によると「第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ」との記録があり、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来ました。神奈備とは、「神々が降りてくる山や杜」を意味します。


と、書かれていますが、どう考えてもここにこそ本来の祭神が祀られているようなのです。同じく、


奈良時代以前は、神社には社殿が無く神奈備としての杜や山や島などを聖なる所と祀られていました。当大社では「昭和の大造営」の際に、この地を古神道の在り方を踏まえ社地・参道等を整備しました。今日では数少ない古神道の聖地として奈良の大神神社の神体山・三輪山などと共に広く知られて多くの崇敬を集めています。伊勢の神宮で執り行われる多くの祭儀が夜の御祭であることから分かる様に、古来の祭儀は浄闇の中執り行われたと考えられています。…中略…平成17年、宗像大社氏子青年会の結成による地域の協力体制も整ったことを期に「八女神事」を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来た高宮で行われることから、神奈備祭とし、高宮祭場での祭祀を復活させました。」


と、あります。

出雲の佐田神社の神等去出(からさで)神事同様、神社にとってよほど大切な神事だったのです。

宗像大社の本来の祭神は大国主命ではないか?としましたが、もしそれが本当であれば、多少、符合することがあります。

それは、大国主を祭る出雲大社の沖に隠岐の島があり、宗像大社の沖にも表記はことなるものの、同じく沖ノ島があることです。

それはあたかも、この地に祭られているのは沖からやってきた渡来神であることを告げているかのようです。

さらに言えば兵庫県の但馬地方にも多くの大国主命を祀る神社が大量に存在します。

とすると、但馬の国も、大国主を祀る宗像大社が鎮座する田島から付された国名であることが見えて来るのですが、ここに、「但馬に集中する兵主神」というサイトがあります。


但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。兵主神社(ひょうずじんじゃ)は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです


[兵主神社一覧]兵主神社一覧 平成祭礼CDから


青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」

千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」  

福井県丹生郡清水町山内 兵主神

滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社

京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」

奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神

兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神

兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命

兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命

兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」

兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」

兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」

兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」

兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」

兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊

兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命

兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命

岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」

鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」

鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」

兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命

奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」

香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命

福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」

福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命


兵主(ひょうず)神社とは?


兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。古事記・日本書紀では八千矛神とは大国主の別名です。スサノオの別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを)も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

大国主は多くの別名を持っています。

雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

   大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。

すなわち意宇(オウ=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

  大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト)−大国主の若い頃の名前

   大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称

   大名持神(オオナムチノミコト)

   八千矛神(ヤチホコノカミ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す

   葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) - 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す

   大物主神(オオモノヌシ)

   大國魂大神(オホクニタマ)

   顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)

   国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播播磨国風土記』での呼称

   所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) − 出雲国風土記における尊称

   国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家と物部氏である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」、韓国語では「hyo」と発音します。


兵主は哮神


  国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)


と、あります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様だそうです。延喜式神名帳で認められた式内社のみに現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。

 

と、すると、出雲は言うまでもなく大国主の本拠地であったとされていることから(「出雲神話」大国主の国譲り)、玄界灘から日本海岸にかけて存在する田島地名は、宗像の「田島」と関係があるのではないかと考えることができるようです。

このことに付随するかのように、宗像三女神を祀る神社は鳥取県米子市宗像(事代主命を祀る美保神社の真北)を除き、日本海沿岸にはほぼ見つからなくなるのです。

 さすがに、隠岐の島には海士村大字布施に出雲の日御碕神社があり、天照大御神に合祭され、天忍穂耳命、天津日子根命、玉穂日命 活津日子根命、速須佐男命、熊野久須毘命 多紀理毘売命、市杵島比女命、多岐都比女命が祀られていますが、それも、隠岐の島が宗像大社の沖津宮が鎮座する国宝の島沖の島が置き換えられた地名だからなのです。では、他にも移動した地名があるのでしょうか。


 宗像一帯の海岸部には、西から、草崎、神湊、釣川、「鐘崎」(鐘ノ岬)、地島(チ、ヂノシマ)、「黒崎」(鼻)、波津、黒山、糠塚、芦屋、「遠賀」(古代の岡ノ湊)と言った地名が並んでいます。

北九州市八幡区の黒崎はこの黒崎(鼻)が最初に移動したものでしょう。

 一般的にこのような地名の移動を考えるときに、例えば、志賀島の「志賀」(鹿)が移動した地名として、佐世保市鹿町、石川県羽咋郡志賀町などが取り上げられますが、海洋民はあまり記録を残さないことから、宮地嶽神社に近い「手光」(てぴか)や「在自」(あらじ)「上八」(ジョウハチではなく何故かコウジョウと読むようです)といった滅多にない特殊地名ならば別ですが、単に同じ地名があるだけでは判断が難しい(事実上できない)のです。

 ただ、奉祭する神社が互に符合するとか、住民の姓氏名や地名が複数や順番に対応するとなると、やはり地名が持ち込まれたと考えていいのではないかと思います。

 こう考えてくると、はっきり言えそうな例として、敦賀があります。

福井県敦賀市の敦賀湾の湾奥、敦賀港の泊地に金ヶ崎町があります。戦国期、越前に侵攻した織田徳川連合軍が攻撃した金ヶ崎城(郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城するも浅井長政が離反し近江海津に進出し挟撃戦となり信長は木下藤吉郎らを殿とし近江越えで京に撤退した)の「金ヶ崎」ですね。

ついでに言えば手前の若狭湾の入口にある巨大な半島の先端にも金ケ崎があります

また、角鹿(つぬが)町もあります。これは実は志賀島のことですが、ここでは、ふれません。その四〜五キロほど北の敦賀街道8号線沿いに「黒崎」という岬があり、さらに二キロ北上すれば「岡崎」があるのです。 つまり、宗像海岸の西から東に向かって並ぶ「鐘崎」「黒崎」「遠賀」(古代の岡ノ湊)と同じ地名が敦賀にも順番に並んでいるのです。

 さらに、その「岡崎」から北に十キロ進むと海岸沿いに「糠」があります。これも恐らく、岡垣町の「糠塚」に対応するのでしょう。もはや、宗像の海士族が拡大するか、移動するか、一部が避退するかして持ち込んだ地名としか考えられません。

上の図を御覧下さい。金ケ崎城があり、順番に「鐘ケ崎」「黒崎」「岡崎」があるのがお判りいただけるでしょう。

 冒頭の宗像大社の地図にも、「鐘崎」「黒崎」「岡垣」「岡の湊」(後の「遠賀」)があり、完全な対応が認められます。

 右の図は、有名な敦賀の「気比の松原」が城崎温泉正面の「気比」からの移動であり、朝倉氏が運んだ地名であることが判ると思います。

そして、久留米の高良大社の初代宮司家の稲員が元は日下部を称していたと言われていますので、朝倉氏がもとは日下部氏と言われているとすると、九州王朝の一族である可能性が高いのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: