2018年12月06日

523 可愛山稜裏のニギハヤヒの墓所 “鹿児島県薩摩川内市の河合陵神社初見”

523 可愛山稜裏のニギハヤヒの墓所 “鹿児島県薩摩川内市の河合陵神社初見”

20180203

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 522 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見 において以下のように書きました。


当会にも熱心な道真ウォッチャーもいることから、最低でも藤川天神を見ておいて頂こうという思いから企画したものです。このため、単に藤川天神への参拝などと言ったどこかにあるような郷土史会や史談会の慰安旅行にはしたくない事から、藤川天神内の道真墓地と本物の墓地の確認と併せ、薩摩川内の新田神社や可愛山稜背後地の伝ニギハヤヒの墓の探訪を行なおうと考えているところです。


 姶良市にお住いのアン・ルイス風の女性にご案内頂き、その俄かには信じがたいニギハヤヒの墓所を訪れました。

 このニギハヤヒの陵墓を守るとする奇妙な祭祀については正直言って面食らっています。

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可愛(エノ)山稜の西側の新田神社の境外末社との事ですが、確かに天火明命=ニギハヤヒ=山幸彦

=猿田彦が祀られており墳墓まで整っているのです。

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ただ、面食らったと申し上げた通り、筑後から筑豊を本拠地として活動した物部氏の中心的神様ですから、何故、この地に…との思いを持ったのは致し方ないのです。


『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。

19世紀初頭に出現し、後世偽書とされた『上記(ウエツフミ)』にもニギハヤヒへの言及がある。上記によるとニギハヤヒは別名・火明(ホアケ)の命であり、天孫の斎(いつき)として、九州・臼杵の河内山に降臨したとある。その後、第70代ウガヤフキアエズの命の時代に、お后の矢野姫にお告げがあり、奈良の斑鳩山に祀られた。物部氏の祖先は、この二人の間に生れたウマシウチ(第71代と高倉下の弟)であり、ナガスネヒコの甥のウマシマテとは別人であると書かれている。なお、「ニギハヤヒ九州発祥説」の有力な根拠ともなっている。饒速日命の墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である。

ウィキペディア(20180203 13:47による

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同社参拝殿神殿(上) 付近は元々川内川の湿地帯だったところのようで殆ど知られていません(下)

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 薩摩川内市の五代地区と言えば、薩摩焼酎の「五代」が頭に浮かびますが、事実、付近には山元酒造もあるようです(鹿児島県薩摩川内市五代町2725)。

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このニギハヤヒの墓についてはそのままでは受け取れない部分があるのですが、基礎研究の段階ですから、一から排除する事はやめておきましょう。

 敗残した物部氏の一派がニギハヤヒの遺骨を以て避退した(薩摩に墜ちる)事も考えられますし、危険回避のための分骨も無いとは言えないでしょう。

 この薩摩川内とは球磨川河口の八代と並んで河童渡来伝承のあるところですので、多くの民族、氏族が様々な理由で雪崩れ込む土地柄ではあるのです。下図の大将軍神社はバラつきが大きいが武甕槌神祭祀。

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謎多きことではありますが基礎調査の段階ですので、先入見に捕らわれることなく落ち着いて考える事にしましょう。

 いずれにせよ、百嶋神社考古学に於けるニギハヤヒのポジションは金神神代系譜のとおりです。

 特に重要に思えるのは同社が新田神社の境外分社とされる関係についてです。

新田神社はニニギ陵墓とされる可愛山陵があることから、ニニギを祀る神社の様に考えられているかも知れませんが、現在は天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギ)、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(海幸=草部吉見)が祀られているものの江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた神社のようであり、どう見ても明治期に上位の神社に認められたいとの意向があっての作為が感じられます。その意味で考えれば、陵墓の主であるニニギさえもが疑わしく思えてくるのであって、維新政府に食い込んだ薩摩島津の意向が感じられるのです。

対して、頑強にこの河合山稜神社とチョッポ岡とをニギハヤヒを祀る神社としその陵として祀る人々がいる事に何がしかの信憑性を感じるのは私だけではないと言わざるを得ないでしょう。

 その意味で、この地にニギハヤヒ系の人々が住み着いていた事だけは間違いがないようです。

河合山稜神社の傍には羽田という集落があることから(グーグル・アース画像)、当然、海路南に展開した秦氏=波多氏を思わせるのです。

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百嶋由一郎 金神神代系譜(部分)


 話は変わりますが、「可愛」「高屋」「吾平」三山陵は明治期に納まりが着かず、結局、鹿児島、宮崎に各々三つづつ割り振られています。要は両県に二つづつ存在しているのです。その意味でバカバカしさを感じるのは常識を持たれる方には説明不要でしょう。

 また、「可愛」と書いて何故「エノ」と呼び習わされているのかについては、ひぼろぎ逍遥 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”@〜Gと、ひぼろぎ逍遥(跡宮)009 なぜ、「可愛」と書いて「エノ」と読む(呼ぶ)のか?(他にもいくつか書いていますが)をお読み頂きたいと思います。この小論で永尾(釜蓋)地名と河合(川会)地名が関係している事を書いています。

 そして、可愛山稜正面にも川内川と隈城川が合流した部分に永尾地名が形成されているのです。


 百嶋神社考古学に関する音声CD、神代系譜、手書きDVDなどの資料を必要の方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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