2018年12月02日

ビアヘロ070 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する “新春那珂川三社巡りトレッキングに参加を”

ビアヘロ070 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する “新春那珂川三社巡りトレッキングに参加を”

20181109

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 思えば那珂川町でのトレッキングがそろそろ十年に近づく太宰府地名研究会での神社探訪の起点でした。その当時はまだまだチンプンカンプンのよちよち歩きでしたが、メンバーも年を重ね、少しは神社を見る目が成長しているでしょうから、那珂川市政(市制)スタートを機会に、再度、旧那珂川町でのトレッキング(オープン参加)を企画したいと思います。

 一応、2019年第3週、20日の日曜日を考えているのですが、あくまでも計画です。

 ここではこれらの神社探訪の基礎資料として、簡潔にその概略をお知らせしたいと考えています。


@     天御中主神社    カーナビ検索 福岡県筑紫郡那珂川町片縄東1丁目

A     地禄天神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町中原6丁目7-8(地禄と十六は同じ)

B  十六神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町那珂川町片縄北1丁目14-16 

C  現人神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町仲3丁目7-8

D  安徳宮       カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳36.

E  裂田神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳11.

F  伏見神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町山田879

G  大山住神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町別所687

H  日吉神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町市ノ瀬441-1

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地図の外になりますがこの南、乙子神社から一キロほど上流に日吉神社があります


@   天御中主神社 

無題.png 通説派の学者に言わせると天御中主神社などというものは存在しない(そんなものが古代には片田舎の奈良の山の中などに有るはずがないのですが)と言われています。

 ところが、この那珂川(古代博多湾)の汀線にはどうも半島とも往来できる、正に最適と考えられる場所にこの神社が鎮座しているのです。

 何故そうなのかと言うと朝鮮半島伽耶の金海金氏(トルコ系匈奴)金越智のお妃となっておられたからで、容易に半島に移動できない近畿などにいたはずがないのです。

 この背後地も古墳と言われますが、この地には実際に妙見様が住んでおられたのではと思わせるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)以下も同様 金山彦+大幡主+大山祗のスクラムが分かります


A  地禄天神社

 無題.png古博多湾岸には千社近い「ジロク様」があり、それらを結ぶと古代の博多湾の汀線が現れるとも言われますが、博多では十六神社、寿老神社、地禄神社と呼ばれ、全て同じものと考えられますが、大幡主(博多の櫛田神社の主神で真ん中に鎮座されている神様)=ヤタガラスの父神でもあるのです。 

こちらも上の神代系譜の黄枠の神様を意味しているのです。

 七福神の寿老神も相互に準えられている様でもあるのですが、そもそも七福神も大幡主を中心とする白族の神様を表したもので、例えば市杵島姫が水の神様弁天様準えられているのです。地禄に行った場合は十六神社はパスします。

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B  十六神社 

地禄の置換えが十六なのであり、地禄神社と同種の神社とお考えください。

つまりこの地も大幡主の領域である事を表しているのです。

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C  現人神社

無題.png現仁とも現人とも書かれますが、戦前、天皇陛下は現人神であらせられる…と言われたその意味の神を祀る神社との振れ込みになっています。

この神社が博多の住吉神社の元社であり、実体は神武僭称贈)崇神天皇=ハツクニシメススメラミコト(阿蘇氏を起源とする藤原が第10代天皇などと格上げした)とされる神ですが、仲哀死後の神功皇后をお妃とした第9代開化天皇(高良玉垂命)の臣下でしかなかった人物で、耳川河口から東征をしたのも、四道将軍を送ったのもこの人物で、それを真実とすればその意味では功績の大きい人物だった事にはなります。この人物は自らを(勿論後の藤原氏がそうしたのです)、初代神武カムヤマトイワレヒコが自分であったかのように装っているケースに良く遭遇します。ちなみに上筒男命はウガヤフキアエズ(前住吉神)代表的なものは下関の住吉神社、底筒男命は開化天皇(後住吉神)であり代表的なものは大阪の住吉神社…となります。Bの現人神社については上の系譜を参照してください。

D  安徳宮

 無題.png言うまでもなく源平合戦の安徳帝の意味ですが、隣接する安徳台は実際に、本人かダミーかが避退し匿われていた可能性のある場所の一つです。最も可能性が高いのは久留米で、これについては「宮原誠一の神社見聞諜」などをお読み下さい。

 ただ、安徳帝については十人ほどの決死隊ダミーがいたと言われる上に、本物の安徳帝は奄美の喜界島に隠れ住んでいたとの話があります。実際に百嶋先生は二十年前までその後裔の○○代目安徳帝と文通をされており、また、奄美までの護衛にも八女の黒木の一族が関与していたとの話を音声で残されています。

 ちなみに、安徳姓が最も集中しているのも久留米市です。

 この中には、死を覚悟して安徳帝の身代わりを買って出た平氏の後裔もいたでしょうし、匿っていた組織の関係者もいた事でしょう。

久留米市に本社を置くブックランド安徳もその後裔の可能性があります。

 本物の安徳帝は始め対馬に逃げ、後に久留米から奄美に逃げたのです。

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E  裂田神社

裂田の溝(さくたのうなで)は、福岡県那珂川市にある灌漑用に作られた用水路である。日本最古の農業用水路としても知られており、疏水百選にも選ばれている。

『日本書紀』に、この用水路は神功皇后が三韓征伐の際当地にある現人神社の神田を灌漑するため造ったとの記述がある。

周囲の遺跡の発掘状況から、実際に造られたのは弥生時代との説もある。

江戸時代に貝原益軒が記した筑前国続風土記には取水堰の『一の井手』が「幅88間(約150m)。筑前国最大の堰である」との記述がある。

名前の由来については、『日本書紀』の記述によるとこの溝を掘っている時迩驚岡(とどろきのおか。現在の那珂川市安徳台)の辺りで大きな岩に突き当たり工事が一時中断した。そこで神功皇后が武内宿禰に命じて天神地祇を祀り祈りを捧げたところ雷が落ちて岩が裂けたため再び工事を行うことができた、との事から「裂田の溝」と呼ばれるようになったという。現在その場所には裂田神社という神社が祀られており、落雷によって裂けたという岩も現存する。

ウィキペディア(20181108 1330

無題.png

【裂田の溝ものがたり】
いまから二千五百年以上も前、むかしむかしの、そのむかし、おばあさんの、おばあさんの、そのまたずうっとおばあさんのころのおはなしです。
那珂川のゆたかな流れが博多の海に注ぎこみ、まわりには広い広い平野が見わたすかぎりにひろがって、その一番大切な中心となるところが、ふるさとの安徳村でした。
そして、安徳村にある大きな大地(安徳台)とそのまわりには、穴をほった上に木を組んで作った竪穴住居がたちならび、たくさんの人びとがにぎやかにくらしていました。
ところが、近くには那珂川のゆたかな流れがあるのに、川がひくくて、田んぼに入れる水を引くことができず、お米をたくさん作ることができませんでした。安徳村のたくさんの村人は、「こんな広い草原を田んぼにできたら、いいのになあ」「どげんかして那珂川の水をひきこむことができんやろうか?」「そしたら、おなかいっぱいお米がたべられるようになるのになあ」などど、口ぐちに話しあっていました。そんな日々が何年も何年もつづき、八百年の年月がすぎたあるとき、神功皇后が、新羅(いまの朝鮮半島)との戦いのために、安徳村にやってきました。皇后は、旅の無事と戦いの勝利を神々にいのり、那珂川から船出無題.pngしていきました。やがて、戦いに勝って無事帰ってきた皇后は、神々へのお礼のために、現人神社におまいりしました。そして、現人神にお米をささげるために、神田を開く、という知らせが村むらにつたわりました。「新しく神の田をつくるには、水を引かねばならん。そのためのみぞを作る大工事をおこなうぞ!」皇后の命令で、たくさんの兵士があつまりました。「みぞができれば、畑んなかに水がひけるばい!」「米ができるたい!」「おいしいお米がたべられるぞ〜!」喜び勇んだ村人たちも、あちらの村からこちらの村から、くわやすきを手にわれもわれもととびだしてきました。兵士も村びとも力をあわせて、川上の山田のあたりから、いっしょうけんめいほりすすみました。ちょうど、安徳台のあたりまでほりすすんだときでした。みんなの口から悲鳴があがりました。「わあ!こら、どげんしたらよかろうか〜」なんと、大きな大きな岩が行く手をふさいで、剣やすきやくわにもびくともしないのです。死にものぐるいでほってきたみぞを、ここであきらめるしかないのかと、人びとはがっくりとかたをおとして、すわりこんでしまいました。これを見た皇后は、武内宿禰という身分の高い家来に命令して、みぞをとおしてくれるよう、神がみにいのりをささげました。すると、どうでしょう!「ピカリ!バリバリバリ、ドッカーン!」いままで晴れわたっていた空が、とつぜんまっくらになったかと思うと、稲光が光って、耳をつんざくような音をとどろかせて、ものすごいかみなりが大岩に落ちたのです。あまりのすごさに、さすがの大岩も、とうとう裂けてしまいました。「ばんざ〜い!」「やったぞ〜!」人びとは手をとりあってよろこび、元気をとりもどし、またいっしょうけんめいほりはじめました。そして、今光村までほりすすんで、ついに平野に那珂川の水をひくことができるようになりました。こうして、まずしかった安徳の村むらは、ゆたかな水田に生まれかわり、何千人もの人がおいしいお米を食べられるようになりました。
人びとはお米つくりにはげみ、秋には、ゆたかにみのった稲穂で、村は黄金色にそまりました。この時から、このあたりを「とどろきの丘」とよび、このみぞを「裂田の溝」とよぶようになったということです。
この裂田の溝は、それから千六百年もの長い間、那珂川町の七つの村、山田・安徳・東隈・仲・五郎丸・松木・今光をうるおしつづけています。あなたが、いつもたべているごはんも、裂田の溝からひいた水でつくられたものなのです。あなたがざりがにをとったり、つりをしている小川も、裂田の溝から引かれたものなのです。このように、千数百年以上も前につくられたものが、いまもそのかたちのままはたらいて、わたしたちのくらしにやくだっているようなところは、日本中さがしてもほかにありません。わたしたちの祖先がのこしてくれた、すばらしい「裂田の溝」をたいせつにして、これからもずうっとまもりつたえていきましょう。


 実はこの神功皇后を祀るとするこの神社の文書によって神功皇后の本当の年齢(生年)が分かります…と百嶋先生は言われていました。

 そして、愕くことに、ここで神功皇后と後の開化が共に生活していた…とも言われていたのです。

右は「高良玉垂宮神秘書」

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F  伏見神社

伏見神社 鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田

御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿祢

御祭礼 一月一日 歳旦祭

二月十一日 建国記念祭 四月十五日 春祭 七月十四日 祇園祭 須佐之男命祭日 県無形文化岩戸神楽奉納 七月三十一日 夏越祭 かやの輪を潜り罪穢を祓い無病息災を祈る 十月十七日 秋祭 五穀豊穣を謝し新藁御注縄を捧げる  十一月十五日 御火焚祭淀姫命遷座を願夜火焚祭を行ふ

御由緒

淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で欽明天皇二十五年十一月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが託宣によって此の地に遷座され後異国襲来にそなえ神功皇后武内宿祢と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す 須佐之男命は天正年間秀吉島津征伐の時博多市街兵火に罹り櫛田祇園の社にも兵火及ばんとするや御神体を当社に遷じ奉り博多住民も避難移住してより祇園祭行はる

鯰渕

社前那珂川の一之堰より上流伏見の渕、鐙の渕、風拝の渕を総称して「鯰渕」と言い「鞍掛鯰」の居る処神功皇后三韓征伐の時背振山に登られ灘の川を渡らせ給ふ時馬の鞍に魚が飛び上り皇后「なまづめ」たいと言はれその魚を鯰と名付け給ふ皇后三韓征無題.png伐の舟出で給う時無数の鯰群をして船を抱き水先案内し戦勝されてより神の使とされた。鯰は平時姿を見せぬが天下変事にはらわれる。元和元年大阪夏の陣、寛永十四年島原の乱明治二十七年日清戦争、明治三十七年日露戦争、大東亜戦争終戦前皮膚病「なまず」は絵馬を捧げて祈願すれば治った人多し

岩戸神楽 昭和二十九年十二月十三日 福岡県無形文化財指定あり


 故)百嶋由一郎氏は「京都の伏見稲荷のルーツです…」と言われていましたが、肝心の豊受大神が祭神とされていないのが不思議です。今後の課題です。


G 大山住神社

無題.png村社 山神社 筑紫郡岩戸村大字別所字上別所

祭 神 大山祇神,伊弉册神,久延毘古神

由 緒

 不詳明治五年十一月三日村社に被定。祭神伊弉册神は字上別所無格社熊野神社として祭祀ありしを祭神久延毘古神は字松尾無格社花亂神社として祭祀ありしを明治四十四年六月十五日合併許可。

例祭日 十一月十四日 主なる建造物 本殿,拝殿,弊殿 境内坪数 四百十七坪 氏子区域及戸数

 岩戸村大字別所 五十五戸 福岡県神社誌 中巻 空 sora そら


那珂川上流域は大山祗だらけですね…。

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脊振山系を越え有明海側に入るルートを制圧していたのも、大山祗系の人々だった事が歴然とします。


H 日吉神社

日吉神社  

那珂川町で蛍や川遊びが出来るスポットとしても親しまれている、中ノ島公園に隣接した日吉神社に行ってきました。那珂川町の水田を開拓する神とし古事記の天孫降臨の条に最初に登場し國津神として語られた猿田彦命(さるたひこのみこと)が祀られている神社としても親しまれています。家と家との間に真っすぐ続く参道の右手には広い水田が広がりカエルの鳴き声が聞こえてきそうな風景、何処となく故郷感あふれたそんな雰囲気に癒されてきました。敷地境内には木々が立ち並び、静かな涼みにも穴場!お勧めなスポットとなっています。また神社には、神前に供える栄木の一種とされる県指定天然記念物のオガタマの御神木が大きくたくましく立っています。拝殿の内部には立派な絵馬が奉納されており、とても古いものだろうと歴史を感じました。…                      福岡よかとこ より

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読めないでしょうが、最も注目しているのはこの神社の縁起です。故)百嶋由一郎氏が重要視していたのがこの由緒であり、同社の古文書だったのです。ちなみに市之瀬は百嶋先生の一族の以前の氏族名です。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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