2018年11月21日

518 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 E “鳥取県若桜町の若桜神社”

518 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 E “鳥取県若桜町の若桜神社”

20180111

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 鳥取市と言えば平成の大合併で出現した巨大市の代表のような行政単位ですが、その南に若桜(ワカサ)町があります。そして、その東にはスキーのメッカでもある但馬の巨峰「氷ノ山」が聳えています。

無題.png

若桜神社 カーナビ検索 鳥取県八頭郡若桜町若桜534 0858-82-2231


 若桜町で神社を云々するにも若桜神社をご紹介しなければ話になりません。

 それほど秀麗で大きな境内を持つ第一級の神社だからです。

 このような領主の肝いりで造られた神社というものをいくら見ても参考にならないケースが殆どなのですが、国常立神を祀る神社であるとすると、必ずしも一般的な神とは言えないため、もしかしたら領主は先祖神と考えている可能性があるのではないかと思います。

まず、国常立命は一般的に知られているほどのものではないのですが、博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神=カミムスビ)の伯母さんの天御中主命とお考えください。百嶋メモによると国常立命は誤りで天常立命が正しいとお考えだったようです。このため大幡主命ではないかとしましたが、正確に言えば天御中主命と考えられます。

無題.png

若桜神社と若桜町とに関係が無いはずはありませんが、イワカムツカリノミコトに関係のある神社であろうことは見当が着きます。

ここには古い時代の九州王朝の痕跡が残っている様に見えます。

また、新たなテーマが産まれました。

しかし、難敵です。

無題.png

秀麗かつ荘厳と言う事の無い神社ですが…

無題.png

「鳥取県神社誌」143p〜中略


 多くの神社が重なっておりこの神社を解読する事など到底不可能ですが、避けて通れない事から取り上げてしまいました。

 ただ、あまりにも荘厳かつ豪奢な上に神殿に辿り着くまでの道路が無い(二百段もの参道階段)事からどう考えても修築が困難と思われることです。

無題.png
無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 良くこれほどの神社が造れたと思うのですが、昔の方が余程経済力は豊かだったのだと思うばかりです。

 現状ではいずれ必要となる再建は不可能と言えるでしょう。実は奈良県桜井市にも若桜神社があります。高良玉垂命=開化天皇の腹違いの兄大彦と武内宿祢に関わる物部神社である事は分かります。


若桜神社
A:若桜神社−奈良県桜井市谷 祭神−伊波俄加利命・大彦命
B:稚桜神社(磐余稚桜神社)−奈良県桜井市池之内 祭神−出雲色男命・去来穂別命(履中天皇)・気息長足姫命(神功皇后)式内・高屋安倍神社を合祀  2014.07.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 若桜神社』とある式内社で、論社として上記2社がある。
 なお、延喜式には城上郡に属しているが、若桜神社の辺りは平安中期以降は城上郡だったが、11世記初め頃に十市郡に編入されたといわれ(桜井市史・1979)、諸資料では十市郡の条に記されている。

書紀・履中天皇3年(430年頃か)冬11月6日条に、「天皇は両股船(フタマタノフネ)を磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ、磐余池のことか)に浮かべられ、妃とそれぞれの船に分乗してともに遊ばれた。

 膳臣(カシワデノオミ)余磯(アレシ)が酒を奉った。そのとき、桜の花びらが盃に散った。天皇は怪しまれて、物部長真胆連(モノノベノナガマイノムラジ)を召して、 『この花は咲くべきでないときに散ってきた。何処の花だろうか。お前が探してこい』といわれた。長真胆連はひとり花を尋ねて、掖上(ワキガミ)の室山で花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とされた。磐余若桜宮(イワレノワキサクラノミヤ)というのがそのもとである。

 この日、長真胆連の本姓を改めて稚桜部造(ワカサクラベノミヤツコ)とし、膳臣余磯を名づけて稚桜部臣(ワカサクラベノオミ)とされた」との説話が記されている。若桜神社はこの説話に係わる神社で、磯城郡誌(1915・大正5)には、「邑の西丘にあり、式内村社にして今白山権現と称す。

 境内に長真胆連が献じたると云へる稚桜の子孫木あり。枝垂桜にして其の花殊に艶麗なり。・・・本社の祭神ならざるも倘くは稚桜部民の祖・物部長真胆連を祀りしならん」とある。

 これによれば、掖上の室山で長真胆連が桜花を得たとの説話を承けて、その後裔・稚(若)桜部造一族が、その祖神を祀ったのが谷の若桜神社という。

 谷の若桜神社の祭神・伊波俄加利命(イハカカリ、伊和我加利命とも記す)の出自は不明だが、奈良県史(1989)には伊波俄牟都加利命(イハカムツカリ)の後裔とあり、伊波俄牟都加利命は新撰姓氏録(815)に

 「右京皇別  若桜部朝臣  安倍朝臣同祖  大彦命孫伊波我牟都加利命之後也」とあるように、若桜部朝臣(臣)は孝元天皇の皇子・大彦命の後裔という。

 一方、池之内の稚桜神社の主祭神は出雲色男命(イズモシコオ)とあり、姓氏録には「右京神別(天神)  若桜部造  饒速日神三世孫出雲色男命之後也  四世孫物部長真胆連云々(以下、上記説話を略記)」

とあり、若桜部造の祖・物部長真胆連(若桜部造)は物部氏系氏族という(先代旧事本紀・天孫本紀−9世記前半には出雲醜大臣命−イズモシコオオミとある)。

 これによれば、若桜部氏には膳臣氏系(皇別氏族・膳臣余磯系)と物部氏系(神別氏族・物部長真胆連系)の2系列があったとなる。

 この2系列の若桜部氏を、説話に基づいて、谷の若桜神社と池之内の稚桜神社の祭神に当てはめると、前者は物部長真胆連(若桜部造)、後者は膳臣余磯(若桜部臣)に関係する神社と思われ、・掖上室山で桜を得た−−長真胆連−−若桜部造−−出雲色男命の後裔(物部氏系)−−谷の若桜神社のはず・磐余池で酒を奉る−−膳臣余磯−−若桜部臣(朝臣)−−大彦命の後裔(膳臣系)−−池之内の稚桜神社のはずとなる。

 しかし、今の祭神からみると、谷の若桜神社の祭神である大彦命の後裔・伊波俄加利命は、磐余池で天皇に酒を献上した若桜部臣(膳臣系)の先祖であり、説話とは整合せず、逆のことが池之内の稚桜神社でもいえる。

 これは、説話にいう掖上の室山及び磐余池を何処に比定するかに係わったもので、・掖上室山は、一般には現御所市室の地(大和国葛上郡)を指すが、古事記・用明天皇段に「御陵は石寸の掖上にありしを、後に科長中陵に遷しまつりき」とある改葬前の御陵の所在地について、大和志(1734・江戸中期)に、「石寸掖上荒墓 谷長門二邑の界に在り。用明天皇を殯葬せし事古事記に見ゆ」とあり、用明天皇の最初の御陵は谷邑と長門邑の境付近にあったという。             戸原のトップページ による

無題.png

「聖神社」神代系譜研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: