太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年11月06日

ビアヘロ067 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

ビアヘロ067 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

20180730

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 粗いながらも二週間かけて福井から青森までの神社調査を行ったのは6月のことでしたが、北海道にも足を延ばしたいという思いは今も燻っています。

 勿論、真実の古代史の基礎調査として神社調査を行っているものとしては、どう見てもそれほど古い歴史を持たない蝦夷地のこと、普通は北海道を対象外とするところなのですが、どうしても行かなければならない神社があるのです。それが、今回取り上げる江差追分で有名な姥岳大神宮です。

 いずれこのためだけに北海道を踏むこともあろうことから、当面は下調べを行い、それをそのままブログとして公開しようなどと狡猾な考えから作業をすることにしたものです。

 従って、現地も踏まない神社リポートになる事を承知でお読み頂きたいと思います。

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創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。

江差町HPによる

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姥神大神宮 カーナビ検索 北海道檜山郡江差町姥神町9910139-52-1900


ソーラン節 鰊来たかと かもめに問えば 私ゃ 立つ鳥 波に聞け チョイ ヤサ エ〜エン ヤーサーノドッコイショ ハ〜、ドッコイショ ...


江差追分 <本唄>○鴎の(アーソイ)鳴く音に(アーソイ)ふと目を(アーソイ)覚まし(アーソイ ソイソイ)あれが(アーソイ)蝦夷地の(アーソイ)山かいな(アーソイ

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姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)は、北海道檜山郡江差町にある神社である。旧社格は県社。社伝では鎌倉時代の創建と伝える、北海道最古の神社とされる。渡島国の一宮と称されており、姥神大神宮渡御祭にて配られる名刺にその記載がある事からもそれがうかがえる。

天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る。

社伝によれば、建保4年(1216年)、江差の海辺・津花町に創建されたと伝える。

そのころ、津花の浜に「折居様」と呼ばれる老姥が庵を結んでいた。彼女には予知能力があり、天気や病気の流行を予言しては周囲に伝えるので、村の衆から何かと大事にされていた。さて、ある年の春先のこと。折居は神島(かむいしり)から光が発せられているのを見て驚き、光の源を訪ねて島に渡った。島には老翁がおり、「この中の水を海に撒くと、鰊という魚が群れになってやって来る」と、彼女に瓶子を授けた。その瓶子を持ち帰り、中の水を海に撒いたところ、話にたがわず鰊の大群が押し寄せ、村は豊漁に沸き立った。

ところが、村人が礼をしようと折居を訪ねたところ、彼女はいつのまにか姿を消していた。そこで、庵に残されていた神像を「姥神」として祀ったのが当社の始まりという。

正保元年(1644年)に現在地に遷座した。当地を治めた松前藩主松前氏からも崇敬を受け、9代藩主の道広は「降福孔夷」(福を降ろすことは孔だ夷なり)の扁額を奉納した。

やがて江戸時代中期になると、北海道近海にロシア船が姿を現すようになった。寛政11年(1799年)、幕府の命で蝦夷地を巡視していた最上徳内は、扁額の「孔夷」を「紅夷」(ロシア人のこと)と読み誤り、その報告を受けた幕府は、ロシア人と密通していたのではないかとの疑いをかけ、松前藩は取り潰しの危機となった。後の調査で、崩し文字のため「孔」が「紅」に見えてしまったということが判明し、藩の取り潰しは回避された。しかし、道広は扁額を現在の「降民殿」に取り替えた。文化14年、朝廷から正一位の神階が授けられた。

毎年、89日、10日、11日に姥神大神宮渡御祭が開催され、全国から観光客が集まる。

ウィキペディア(20180730 1538による


では無題.pngHPを見ましょう


姥神大神宮の由来

姥神大神宮の創立は不詳ながら昔から伝わる一つの伝説に始まります。

ある日、どこからともなく一人の姥(うば=おばあさん)が江差へやって来て、津花の地に草庵を結びました。当時、蝦夷地は冷涼で作物もあまりとれず、餓死する者も出る状況だったと云われています。そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。不思議に思い、尋ねてみると、白髪の翁(おきな=おじいさん)が岩の上に座り「汝の来たれるを待てり。機、正に熟せリ」と言って、小瓶を与え「この瓶中に水あり、之(これ)を海中に点ずれば鯡(ニシン)といふ小魚群来するに至るべし、之を以(もっ)て島人の衣食住の資(たすけ)とすべし。吾汝と共に島人を永く護らん」と告げて焚火と共に消えました。

折居様が教えられたように、瓶子の水を海中に注ぐと、海水が白色に変わりニシンが群来して人々を飢えと寒さから救ったと云われています。やがてこの折居様も草庵に五柱の御神像(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)を残したまま姿を消しますが、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀り、後に初代藤原永武がこれに奉仕しました。その後、本道にはニシンが群来するようになり、「白金寄する」地として年々本州より人々が渡って江差は経済の中心となり、姥神大神宮は北海開祖神とも陸奥国松前一の宮とも云われるようになりました。正保元年(1644年)には津花の地から現在地に遷宮し、渡御祭はこの頃から行われたと考えられています。文化14年(1817年)には朝廷にて119代光格天皇御下、上卿唐橋大納言列座の下、10代相模守従五位下大神主藤枝政光が召されて、正一位の位記と大神宮号をすすめられました。また神職は代々豊後守、相模守に任ぜられ従五位下に叙せられています。

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もう一度HPを見ましょう


江差を彩る祭のあゆみ 姥神大神宮祭

8月9日宵宮・10日〜11日神輿渡御、町内13台の山車(ヤマ)が供奉巡行する姥神大神宮の例祭が、絢爛豪華に繰りひろげられる。
姥神大神宮は陸奥国松前一の宮と云われ、その創立は古く、一説には文安4年(1447年)と伝説に語られているが、詳らかでない。姥神町南端、津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。
折居姥(於隣)の屋敷跡・姥神社の古社地と云われ、神域として信仰されている。
姥神大神宮の現社地は、正保元年(1644年)岩崎の麓に遷座、安永三年(1774年)拝殿が造営されて今日に至っている。この史実から地域が姥神町と名付けられた。
姥神大神宮の祭礼は、神輿の渡御に町内の山車(ヤマ)が供奉し、豊作・豊漁・無病息災を祈念して巡行する渡御祭である。この例祭の形態は何時からであるか。文化13年(1816年)の『社地伝記控』(藤枝家文書)に「当地姥神弁天両社祭礼、8月14日神輿洗・15日領主代参・15〜16日神輿渡御」とあるが、その創始は古く詳らかでない。
神輿の渡御に供奉する現在の山車(ヤマ)の中で一番古いのは、愛宕町の道指定有形民俗文化財の神功山で、その人形は宝暦4年(1754年)、水引幕は宝暦11年京都の松尾七郎兵衛が納めたもので、宝暦年代には渡御祭の形態が出来ていたことが窺える。渡御行列の模様は元治元年(1864年)8月『両社御祭礼行列並宿割控』(関川家文書)に克明ではあるが、千人を超える大仰な人数の行装、荘厳・厳粛なさまが偲ばれる。

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山車(ヤマ)は依代

江差で神輿に供奉する曳き山車を「ヤマ」と云うのは、京都祇園祭の系統をひいているからで、祇園祭の山鉾と同じように、青木や帆柱を依代として神が降臨する神域という意をこめてヤマと呼ぶ。それは江戸系統の祭りで、絡繰や歌舞伎、踊りなどを演じて移動する屋台を「ダシ」と呼ぶのと区別している。
江差では屋体の上に一本の青木(トドマツ)を立て、神の依代とする。この青木を立てることを「ヤマを立てる」(船山では帆柱)と云う。三頭立ての鹿子舞で青木を立てるが、ヤマと呼び、神の依代を表徴するのと同じである。明治30年代に撮影された聖武山(現橋本町)の写真を見ると、ヤマのシンボルである青木が高く聳え、土蔵2階建ての店舗を凌駕している。これが本来ヤマの様相なのである。ところが大正4年(1915年)電気会社が創業し、道路に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて、高い山車(ヤマ)が通れなくなり、山車(ヤマ)が低く変貌せざるを余儀なくされた。さらに昨今信仰面での変革もあり、ヤマの守護神として添えられた人形が、ヤマの主体と主客転倒、形式化され「伝統だからヤマを立てる」と云うようになった。
さて祭礼行事のなかで宵宮は、ヤマが入魂する大切な神事で、神が降臨し移動神座となるのである。

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山車(ヤマ)の起源


姥神大神宮の祭りは「姥神宮祭礼之議是迄弁天宮両社ニ付隔年8月15日・16日両日祭礼修行仕」(藤枝家文書『元治元年七月姥神宮夜宮例祭日記』)とあるように、文久2年(1862年)まで、姥神弁天両社祭りとして隔年修行して来た。明年から姥神神社は8月15日・16日、弁天社は5月26、27日に分離して修行することになったが、前同『例祭日記』によると、姥神神社の例祭が修行されなかったので、本年(元治元年)から修行するように、氏子一同の相談がまとまり江差奉行の許可を得て、分離後最初の姥神祭りを修行した。この年の渡御行列は(元治元年八月関川家文書)千人を超える大行列であった。この年姥神祭の神輿渡御に供奉した山車(ヤマ)は、7台で現在は13台と増加しているが、変わりないのは神功山・蛭子山・松寶丸の三台だけである。
各町内の山車(ヤマ)が今日の形態になるまでには、紆余曲折はあるが、その創始は町の開発の推移と期を一にするようである。
元治元年『姥神宮例祭』日記を見ると、この年までの祭礼は、江差市中大手商人の無尽「常盤講」仲間の醵金で修行されて来たが、慶応元年から各町内の供物によって修行する様になった。これまでの山車(ヤマ)は、町内居住の大手商人が寄進し、祭礼に供奉する経費・直会までも大手商人(親方)出費で、町内の人々は親方の揃いの印入半纏でヤマに奉賛した。この状態から慶応元年ヤマは実質的に町内の所有となり、その保存運営は各町内の住民の手に委ねられることになった。山車(ヤマ)の起源には幾つかのパターンがある。今日各町内が保存伝承する絢爛豪華な山車(ヤマ)には、それぞれ変遷があり、はじめは鯡取り舟(ホッチ)に車を付け急造の舟山としたり、張りぼて人形を台にのせたりして、臨時急造のヤマから始まるのが多い。人形や付属品を入手した年代はそのヤマの創始ではなく、それに至るには臨時急造の時代があるのであり、結局創始年代は詳らかに出来ないのである。

山車かざり


屋体の上に青木(トドマツ)を立て森・深山をイメージして神座を設え、その前面に人形を飾る。ヤマに人形を配するのは、ヤマの守護・警固・化身ということで、ヤマの本質からは青木が主であり、人形は従である。各町内の象徴で、住民に神格化されている。

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山車(ヤマ)飾りの伝統として、ヤマの背後に「綿の御旗」と称して、女の丸帯を幟に仕立てて掲げる。これは多産信仰に発する豊作豊漁の願いをこめての信仰で、素朴な土俗信仰の名残である。神功山の綿の御旗は、年代物(伝蜀江綿)の逸品(道指定文化財)である。
ヤマ・御幣・人形・錦の御旗・山額は、山飾りの主体であるが、さらに特注の紋章を染めぬいた色とりどりの縮緬の幟・五色の吹き流しを掲げ、外廻りは提灯で飾り、更に正面をのぞく三面は豪華な水引幕で飾られる。この13台のヤマが神輿に供奉して巡行するさまは、吹き流し、錦の御旗が翻り、朱塗りの屋体、金色に輝く金具。祇園囃子をくむ祭囃子に乗って町並を行く、まさに一幅の絵巻物である。
各町内の山人形の一番ポピュラーなのは武者人形で、武田信玄・楠正成・大石良雄・水戸光國・加藤清正・伊達正宗、神話系の瓊瓊杵尊・神武天皇・蛭子、能面系の神功皇后、文楽系の日本武尊、歌舞伎系の武蔵坊弁慶の十二体に弁財型御座船松寶丸と、多岐である。
今日では見られなくなったが、大正の末年まで、山車(ヤマ)行列のあとに、町内の子供が演出するねり児が供奉した。一般に古い商家では家伝来の憧れの武将の子供用甲冑武具を所持保存しており、5才から10才位までの男児、主として嫡子が、家伝の武具に身をかため、介添として家印の半纏を着て床几持等、二人の供が付き添って、行列に供奉したものである。

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長々と引用させて頂き大変恐縮していますが、九州から北海道の事を書くと言うとんでもない事をやっているためお許し頂くとして、何故、この神社が重要であるかを今からお話ししたいと思います。

 大阪を起点とする北前船は江戸期に整備されますが、それ以前に物流が無い訳ではなく、我々が考える九州王朝の時代から博多を起点として日本海航路が開拓されていた事は間違いないと考えています。

 これは、以前ご紹介した「神武巡行伝承」と甲府の「天津司神社」に神武時代の有力な神々が揃い踏みしている事からも十分に推察されるのです。

 何を馬鹿な事を…と思われる方は、真実を知らないままお花畑で死ねば良いだけですからご自由に…としか申し上げられません。

95%が藤原が造った罠と嘘でしかない「古事記」と「日本書記」をそのまま信じるのは宜しいでしょうが、我々、百嶋神社考古学のものから見ればこれらは殆ど漫画の世界でしかないのです。

弥生時代の始まりさえも都合が良いように500700年遡らせたのですから、少しは固定観念から解放されなければ古代史の世界も蜘蛛の巣に入ったままになると思い続けているところです。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)562565として書いていますので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。神武一行が実際に糸魚川から甲府の山上楽園を踏んでいるとの伝承が確認できる上に、これに関与したと思われる、神武の次世代、次々の世代と言える若き市杵島姫、草部吉見=後の武甕槌…が浮かび上がってくるのです。その後、彼らの次世代は糸魚川の姫川を遡上し松本、諏訪、甲府へと開拓を進め、さらに日本海を北に上り国土開拓へと展開し、十三湊から北海道さえも見据えた人々もいたであろうことが想像できる所まで推定ができるのです。

 少なくとも新潟県の柏崎刈羽に近い二田物部神社の主神はニギハヤヒ(山幸彦)ですし、新潟市の南の弥彦神社も同様です。

 さらに言えば、秋田の男鹿半島の真山神社=赤神社も阿蘇高森の草部吉見神(海幸彦)なのです。


570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


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甲府の天津司神社の祭神


昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦であり、それを婿とした市杵島姫(奴奈川姫)であることが分かります。

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれたと分かります。

 話がかなり横道に逸れましたので、再度、戻しますが、この江差追分の江差までは、対馬海流を利用した 天草〜博多〜下関〜益田〜浜田〜出雲〜米子〜青谷〜鳥取〜…日本海沿いの古代の潟湖と呼ばれる天然の港を利用した日本海航路と言うべきものが存在していた事が推定できそうです。

 天草ハイヤが日本海沿いに北前船で運ばれたといった話は良く言われますが、それは江戸時代に限ったものではなく、遠い古代からそれ以前の神世まで遡る神代にも展開されていたのです。そして、その延長が江差まで伝えられているのです。

 勿論、蝦夷地の開拓は後代のそれとしても、中央から遠く離れた僻陬の地には、明治期に隠されたはずのものも御咎めが届かずそのまま残っている可能性があるのです。

ここで姥神に触れますが、姥神大神宮の「姥」とは、藤原が造りデカシタ「古事記」の創作である“産みの親の豊玉姫に引き継いで送り込まれた玉依姫”を乳母に見立て、「姥」(乳母)神とされたのでしょう。続編の百嶋手書きメモには大神一族についてもふれています。 この三つウロコ紋の一族こそ一時期は宇佐神宮を支配した大神一族に繋がるものであり、ひぼろき逍遥(跡宮)372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社についてなどをお読み頂きたいと思います。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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