2018年10月28日

510 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? A ”氷川以北の鹿島神社”

510 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? A ”氷川以北の鹿島神社”

20171212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


香取とくれば鹿島になります。

無題.png

確かに氷川の北の旧竜北町に鹿島地区があり鹿嶋宮があるのです(熊本市の南に嘉島町もありますが)。

 この神社は竜北西部小学校のすぐ北に隣接して鎮座しています。

入口には「鹿嶋宮」の額が掛かった鳥居が建立され、境内に入ると左には手水舎・土俵が配され、参道左右に社名が分からない境内社が二社祀られています。中央奥には唐破風付き入母屋造りの拝殿があります。

「熊本県神社誌」238pには武甕槌と経津主とされており、確かに鹿島、香取を意識した祭神配置になっています。

 武甕槌と経津主とは言うまでもなく海幸彦と山幸彦であり、阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミと不知火海から天草にも広く奉斎されている猿田彦=ニギハヤヒのことなのです。


 御祭神:武甕槌大神、経津主大神

 祭礼日:歳旦祭・11日、鹿島神社春季大祭・415日、還暦祭・415日、立願祭・7月、鹿島神社秋季大祭・1015日、七五三子供大祭・1115日、大祓祭・1231日、水天宮大祭・215日、天満宮大祭・225日、海神社大祭・321

 境内社:水天宮、天満宮、海神社

 由緒:後白河天皇の御世、外敵の侵入を防ぐために、茨城県の鹿島から奈良県の春日に分霊が行われた。その後福岡県の志賀島、佐賀県の鹿島、そして熊本県のここ鹿島に御霊をお祀りすることとなった。その時肥後守平朝臣貞能、尾崎左近衛督藤原朝臣兼倶が天皇の命により鹿島村の海辺の地、一町田を選んで社を建立し、保元2年(11571115日に落成した。社田六百歩が寄付され、息左衛門尉兼雄に守護させたという。

 その後天正年間、小西行長によって社殿を焼失されたが、慶長の初めに加藤清正公に願い出て、慶長15年(161010月に再建することが出来た。文政元年(1818815日に社殿改修、天保14年(18431120日、弊殿と拝殿が再建された。

無題.pngによる

無題.png
無題.png

さて、「後白河天皇の御世、外敵の侵入を防ぐために、茨城県の鹿島から奈良県の春日に分霊が行われた。その後福岡県の志賀島、佐賀県の鹿島、そして熊本県のここ鹿島に御霊をお祀りすることとなった。その時肥後守平朝臣貞能、尾崎左近衛督藤原朝臣兼倶が天皇の命により鹿島村の海辺の地、一町田を選んで社を建立し、保元2年(11571115日に落成した。社田六百歩が寄付され、息左衛門尉兼雄に守護させたという。」と書かれていますが、どうやら後白河天皇は常陸の鹿島=武甕槌=鹿島大神が春日大神であり、そのルーツが九州島の肥前の鹿島、肥後の鹿島にあった事を十分に知っていたはずなのです。

 だからこそ再勧請が行われたのであり、結果的には常陸や上総、下総からの勧請であったとしても、間違いなく有明海、不知火海一帯で活動していた海幸彦、山幸彦の領域だった事が分かって来るのです。

 恐らく、保元の乱の頃までは、まだ、この事は十分に認識されていたのでしょう。

 始めは熊本の鹿島は嘉島町の事だと考えていたのですが、火の君の中心地である氷川流域の鹿島だったのかも知れないのです。ただ、現地は古代には海の中の干拓地であって元宮も山手にあるはずなのです。

 最後に、山幸彦が香取の経津主であるとしましたが、その経津とは島原市の「布津」である事をお知らせしておきましょう。 

無題.png

ひぼろぎ逍遥(跡宮)には、

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

を書いていますが、故)百嶋由一郎先生も、“島原市の猛島神社が山幸彦の本拠地でした”と言われていました。

無題.png

五十猛尊、大屋津姫命、抓津姫命を主祭神とする神社です

無題.png

もう皆さんも経津(フツヌシ)が山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛(イタケル)=石上(イソノカミ)…であることがお分かりになったと思います。

 草部吉見(海幸彦)、猿田彦(山幸彦)共々、神武東征ならぬ神武御巡幸の随行者として東日本に入っている可能性があるのです。

 その後、これらの神々を奉斎する氏族が東日本に入っている事は想像するに難くありません。

 では、何故経津主と呼ばれるのでしょうか?

 「主」は、天御中主を筆頭に、大幡主、豊国主(ヤタガラス)、大国主、経津主(山幸彦)、事代主(蛭子)、天之甕主…と大幡主(白族)系の神々の尊称であることは見当が着きます。

 これについては、百嶋由一郎氏は“現地(雲南省昆明)の青銅器にも「主」が刻まれている”と言われていました(滇(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国)。では、経津、布都…とは何でしょうか?

 まず、香取神社が鎮座する千葉県には富津(フッツ)市がありますね。隣は君津市ですね。

無題.png

しかし、それは移住地であって、本来の震源地は九州島にあり、猛島神社(五十猛を祀る)が鎮座する長崎県島原市の布津(旧布津町)だろうと考えています。

無題.png

実は、五十猛命を祀る(ニニギ説もあり)荒穂神社(基山、太宰府、嘉麻…に数社)に近い、鳥栖市にも布津原町があります。

無題.png

遠い古代、猿田彦=五十猛…を奉祭する諫早から有明海を中心とする海人集団が、第二拠点とも言うべき山鹿の猿田彦軍団と共に、房総半島で上総(カズサ)に向かったと考えています。

 その根拠はと問われれば、同一神を奉祭神社が存在し、経津(フツヌシ)=フツの主と呼ばれている事、千葉県と有明海沿岸に「フツ」「フッツ」と呼ばれる地名が存在している事ですが、千葉県富津市、君津市が在る一帯を上総(カズサ)と呼びますね、「かずさ」と呼び習わしていたから、下の「カズサ」と併せて上総、下総(シモウサ)とされたのだろうと考えています。

 では、何故、カズサと呼ばれているのでしょうか?

 それは、有明海の出口である、口之津の隣町の南島原市の加津佐(カズサ)という地名が持ち込まれたからだろうと考えています。

 隣の口之津は明治から昭和初期に掛けて大貿易(上海向石炭積出港)であり、さながら海員学校が置かれた口之津は、ある時期、国際貿易港の様相を呈していました。

 一般的には、博多港、唐津港、呼子港が注目されていますが、海流を考えれば、直ぐわかるように、有明海を出れば、そこには対馬海流が流れており、半島、大陸、インドシナへの航路が開かれていたのです。

大幡主の配下にあった山幸彦=経津主は、島原半島の布津、加津佐を拠点に活動していたのです。

無題.png

猿田彦=経津主は口之津、加津佐から列島に展開した

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 18:32| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: