2018年10月24日

509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @ ”氷川以南の香取神社”

509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @ ”氷川以南の香取神社”

20171211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、宮原誠一氏と共に肥後は氷川流域の神社調査を進めていますが、最も関心を持っていたのは、氷川町の西隣の八代市鏡(旧鏡町)に鎮座する二つの香取神社でした。

香取神社については、既に、ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 という奇妙なタイトルで妙な話を公開しています。

百嶋神社考古学では、千葉県から茨城県に掛けて展開する鹿島神社と香取神社とは、各々、海幸彦(阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミ…)、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)と考えています。

当然にも、塚原卜伝が信奉した鹿島大神=武甕槌こそ阿蘇の草部吉見神と理解していましたが、香取神社の経津主がニギハヤヒなら彼らも九州のどこからか移動したのだろうと考えていました。

ところが、11月に熊本県上天草市の大矢野島に二つの香取神社を発見したに留まらず、相次いで、宮原誠一氏から熊本県氷川町の南の旧鏡町に香取神社が二社ある事を告げられたのでした。


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写真の香取社は円中の神社です 


 この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのですが、九州では香取社を見ない上に、醤油の醸造でも絡んでいれば別ですが、何故、この地へ香取社が勧請されたかが不明なのです。

 ただ、醤油の醸造には塩が欠かせない事から、最大の生産地であった天草との関係はあるかも知れません。

 これについても ひぼろぎ逍遥(跡宮) 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説 外を併せてお読み頂きたいと思います。


310

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡


 そこで、今回の氷川左岸の香取神社の発見です。

 それほど大きな神社でない事は始めから見当が着いていました。

それなりの大社であればこれまでのフィールド・ワークで気づかないはずはないからです。

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が下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)で、が上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。

町村合併の折、有佐は分かれたのでしょうか良く分かりません。

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香取神宮の御神体で経津主=山幸彦と豊受大神となるのですが…


一方、旧宮原町の香取神社はピカピカの真新しい社殿でした。

「熊本県神社誌」によれば上有佐の香取神社の祭神は「経津主神」(宮原町有佐303)とされています。

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終戦直後のそれこそ安直な千葉県佐倉市からの勧請神社説においそれと乗るつもりはありませんが、ここでは、不知火海を中心に香取神社が4社ほど確認できる事をお知らせして、以前から気にしている事が幾つかあるため、ここではそれをお話しする事にしましょう。

 まず、常陸国〜上総(カヅサ)国の「上総」はいかにも読めない地名であり、カヅサと呼ばれている土地を無理やり、上総、下総との文字を充て、そのまま読ませたようにしか思えません。

一方、房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。

さて、上総(カズサ)で思い描くのは長崎県南島原市の南の加津佐です。


上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。


下総国

現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。

『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。

何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。

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有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。

無題.png思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているのです。

つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。

太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。そうです。キッコーマンは香取神社の氏子の一族であり、だからこそ大幡主の神紋である亀甲を使い、共に「主」(大幡主、経津主)という称号を使っているのです。経津は島原市に編入された旧布津町ですし、千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。


資料) 口之津は九州王朝の最重要港湾か? (2011年夏に久留米大学で講演した「苧扱川」の一部分)

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口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社


皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。


無題.png遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、船の帆ではなかったかと考えるのです。

一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。


苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。

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上総、下総の鹿島神社(海幸彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)


 研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、手書き資料(DVD)神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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