太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年10月19日

ビアヘロ065 謎の「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった”(下)

ビアヘロ065 謎の「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった”(下)

20180717

太宰府地名研究会 古川 清久


2018年の西日本豪雨災害から一転、猛烈な暑さに襲われています。

阿蘇外輪山から連続する日田の高原地帯に天然温泉付きの当会の研修所もあるのですが、温泉は涼しくなって入るとしても、夕方までは冷たい地下水を掛け流しにながら広い岩風呂で水浴してブログを書き続けているのです。

 つまり、エアコンのテスト運転さえも行わずに何度も水風呂に入って扇風機だけで、ただ、ひたすら耐えている訳です。

 標高400メートルといった高原とは言ってもこれまでのブログで書いてきた様に、夕立が消えたために地表の蓄熱が解消されず、3035度といった高温が連続していますので、いつしか濡れた皮膚を濡れたタオルで覆い、扇風機で人工的な気化熱で冷を取るという伝統的な方法を取っている事に気付いたのでした。

無題.png恐らく、ギリギリ50代の方には理解して頂けるのではないかと思いますが、昔は街角でさえも良く見かけた風景でした。    

暑くてシミズ(シュミーズと言ってももはや死語ですかね)一枚着て、背中に日本タオルだか洋タオルだかを載せて団扇で涼を取っていた事を思い出すのです。今になって分かるのですが、皮膚が濡れているから気化熱で涼しくなるのですから、濡れタオルとは実に合理的な方法だった事が良く分かるのです。

 無題.pngその後、扇風機からエアコンが普及するに至ると状況は一変します。昔の暑さは現在のような気違いじみたものではなく、その程度でも結構凌げていたのかも知れません。

驚かれるかもしれませんが、実際そうなのです。毎日夕方になると決まって黒い雲が現れ何やらゴロゴロと雷が鳴り始め夕立が降ってきた事から、地面は一気に温度が下がり、萱の中で母親が煽ぐ団扇で快く眠りにつくことができたのでした。

この熱循環を実現していた夕立を消してしまったのが国土交通省であり下っ端の農水省でした(「打ち水大作戦の大間抜け」…外をお読み下さい)。

地方(佐賀県)の小都市に住んでいた私も、昔は温泉の共同浴場に家族で行っていましたが、節約のために週に二、三度であって、夏場はもっぱら行水と濡れたタオルで体を拭いていたのでした。始めは木で作られたタライ(これも死語になりましたが)でしたが、何時しか金盥(カナダライ)に変わり、とうとうプラスティックス製の盥(タライ)に置き換わるのです。その頃には、行水の風習は消えて行ったのでした。実は、エアコンどころか扇風機も一家に一台しかないこの時代の方が、まだ涼しかったという記憶を持っています。

 昭和40年代の始めの頃の記憶ですが、小学校の「夏の友」といった教材の日記欄に「今日は29.5度ですごく暑かった…」と書いているのを今でも良く覚えています。

 実際、その時代、30℃を超える日というものは一夏でも二日か三日、多くても五日を超える事はなかったのでした。この穏やかな国土を徹底的に破壊尽くした結果、上水は遠くのダムから地下管路で送られてきますし、地表の水は全てを下水道として地下に流し込み、小規模河川は三面張りの雨樋としてたちどころに乾燥化させるとんでもない国土を造りだしたのが国土交通省と下っ端の農水省だった事は書いた通りです。山の人工林化や圃場整備によって、列島が乾燥化させられ一気に気温が上がる国土となったのです。

皮膚に水分がなくなれば気化熱の発生が消え一方的に体温が上がる事になります。

これと同じですが、地表に水分がなくなると夕立が消えヒート・アイランドとなるのです。

この勢いで、史上経験した事もない数十年に一度の豪雨災害が毎年発生するようになった事によって新たな災害復旧工事を抱え込みながら東京オリンピックが熱波に襲われで破綻するのを心待ちにするこの頃です。オリンピックなどやめて国民を救済せよ!と思うと言うより夢見るのですが、東京五輪の御臨終を見届けたいと考えています。くだらないヨーロッパ不良貴族の生き残り共が始めたオリンピックなど止めて国民の救済のために資金は回すべきなのです。

どうせオリンピックなど個人と国家の不正合戦であって国の名を外した小さな運動会に徐々に貶め、頭が空っぽなスポーツ選手などの活躍の場など無くしてしまえと思うこの頃です。

 さて、前置きが長くなりましたが、今回は「行水」とは何かを考えることにします。


行水と風呂


 行水とお湯に入る事にはかなり違う点がある事がようやく少し分かるようになってきました。

 まず、熱いお湯を湯船に張ってその中に首までつかって湯あみをするという風習を持つ民族と言うのはそれほどいないという事に気付きました。

 まず、温泉に毎日入るような民族は日本人と台湾人とヨーロッパ(バーデン・バーデンやアイスランド…)人の一部、それに南米のペルーの温泉地帯など極僅かしかいないのです。


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ペルーの観光スポット!クスコの温泉!日帰りできアンデス山脈を見ながら浸かれる露天風呂 La Raya


 火山が事実上存在しない中国も首まで浸かる様な浴場はない上に、浴槽も無く、シャワー(冬は熱い湯が出はするのですが)が普通で、農民工などは週に一度体を洗うか拭く程度でしかないのです。

 そこでインドです。結構首まで浸かる様な浴場があるとも聴くのですが、元々は沐浴、水浴の国なのです。水浴と言ってもお湯と変わらないような太陽で熱せられた水であってそれでも良いのでしょう。

インドネシアも火山の島ジャワには堂々たる温泉がありますが、スコールに合わせた水浴が基本で、シャワーだけで事足りているようです。

ベスビオ火山で知られる火山国のイタリアですが、トロヤ戦争〜ローマの軍船それに水道橋やコロッセオなどコンクリート構造物も含め森を切ってしまったために実に水に乏しい国となり果て、チョロチョロの水でシャワーを浴びる事しかできないのです(潜水艦の乗組員並みの水しか使えないのです)。

では、ロシアはどうでしょう。王侯貴族だけの話かも知れませんが、お湯を沸かしバス・タブに入る文化が一応は存在していました。

北欧のサウナは良く知られています。シャワーは使うのでしょうが、冬場は凍結し、なかなかお湯を沸かすとしても相当の燃料が必要で、サウナが簡単である事は容易に想像が着きます。

当然、モンゴル高原のトルコ系、ツングース系、モンゴル系の遊牧民もパオ(ゲル)の中で蒸し風呂に入っていた事は知られています。

シベリアからアラスカのイヌイット(エスキモー)も周りに薪などなく水さえもないことから風呂など全くかと思ったのですが、氷室の中の蒸し風呂が普通で、中には尿風呂にも入ると言われていますが、実感がわかずに良く分かりません。

 お隣の韓国ですが、ソウルにも温泉が幾つかあります。

ただし、それほど古いものではないようで、韓国にはバスタブで首まで浸るという風習はないようです。

無題.pngこのため、韓国勤務を命じられた邦人社員はシャワーだけの半島生活に耐えられず、なんとかバス・タブを浴室に入れて湯船として利用すると言う話を聴きました。

同じような話ですが、「中国戦線よもやま話」か、何かだったと記憶していますが、中支戦線で大きな甕を見つけると大喜びでお湯を沸かして、お湯を入れ湯に浸かったという話がありました。

勿論、中国には風呂屋などはなかったのです。

こんな話こそ日本人を考える上でよほど参考になる話ですが、現在の大陸に住む支那人なるものがどのような人々であるかが垣間見られるのです。

中東とアフリカを除く大雑把な傾向はお読み頂いた通りですが、日本人が如何に首まで浸かる風呂をいかに好むと言うより渇望しているかは十分にお分かり頂けたのではないでしょうか?

 一つは、お湯を沸かすための十分な燃料が安定して供給できる里山が直ぐ傍に有ったと言うことや、当然にも十分な水があったこと。さらに言えば、その温度がそれほど低くはなく、冬場でも地下水ならば最低でも15度程度で、温泉でもあればそのまま入れたことがあったようです。

 ところが、ところがですが、日本人には蒸し風呂にも入る風習も同時に存在していた事に気付くのです。

 決して水を沸かして湯船に入られるというだけの文化とは異なる所謂風呂文化が存在したようなのです。

 それは、江戸の浮世風呂が元は蒸し風呂だったという事実です。


江戸ガイド(江戸時代のさまざまなトリビアを紹介!)をお読み下さい。


江戸時代は、お家にお風呂がなかった

江戸には水道が引かれていました(これ、江戸っ子の自慢)。ただ、水は非常に貴重であり燃料の薪も高価。そのため内風呂を持っている家はほとんどありません。

武士だろうが大商店の主人だろうが貧乏長屋の家族だろうが、みんな公衆浴場=銭湯に通いました。銭湯は、江戸では「湯屋」と呼ばれていて「ゆや」「ゆうや」と読みます。ちなみに京や大坂など上方では「風呂屋」と呼ばれていました。江戸時代の銭湯の様子がこちら。

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浮世風呂が蒸し風呂だった事ですが、単に水と燃料の節約のためだけではなく、ここにステップ・ロードの残影(北方系騎馬民族)を見るのですが、これが今回の本当のテーマなのです。

 まず、現在の九州の温泉地にも蒸し風呂が存在していた事を知っています。

 もっとも集中しているのは大分県で鉄輪温泉の鉄輪むし湯が最も知られていますが、杖縦温泉にもありました。鹿児島県の栗野岳温泉、妙見温泉を始め杖立温泉まで多くの蒸し風呂が存在していましたし、福岡県の東峰村にも少し前まで釜風呂温泉(これは岩盤浴の様なものでした)があった事を記憶しています。

 不思議と海人族の領域には存在しないのです。これが蒸し風呂へのイメージを尚も強めています。

実は30年も前から気付いていたのですが、「風呂」と言う地名が何故か中国地方の山中などにかなりの数で拾えるのです。

今回、この問題にある程度の見当が着いたので書く気になりましたが、目立つのは愛媛県今治市の桜井石風呂で、これについては今も確認できます。今さら一から「風呂地名」を拾い出す気はないため、ネット上から探すと多分京都地名研究会辺りの方だと思うのですが、「晴徨雨読」と言うサイトがあり(以前から何度か読ませて頂いていますが…)、有難く一部をご紹介させて頂くことにしました。以下…。

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筒井功 文藝春秋, 2008 - 276 ページ


貧しい炭焼きが福分をもった女性と結婚して、それが縁で財宝を発見するという「炭焼き長者」伝説は、東北地方の北端から沖縄の島々にまで、同工異曲の類話 ... そうして、よく似た筋の話が朝鮮にも中国にもあることは、決して偶然ではあるまい。か: 3 韓室とは何か石風呂と無風呂日本式サウナのことを本書では、ずっと「石風呂」と総称してき た。

ページ

この想像は、御先風呂などの地名や、森をフロという方言が多く中国地方に分布していることとも符合するように思える。胡畔の石風呂の起源日本の石風呂が朝鮮に由来する可能性が高いことは、これまでに述べてきた事実によって、おおよそはうなずけると思う ...


風呂地名の謎(1) 10/20

2016.10.20(木)曇り 

 風呂地名について綾部市周辺を調べてみた。

風呂屋(鷹栖町)、風呂ノ谷(下原町)、風呂ノ本(上原町)、風呂谷(十倉志茂町)、中風呂(睦合町)、高風呂(五泉町)、風呂ノ奥(老富町)、本風呂(市茅野)そして井倉新町と味方町の石風呂である。グーグルの地図で掲載されているところを調べてみるが、山中あり川辺あり宅地ありで地形的にも山あり谷あり平地ありで千差万別である。ということは一つのある地形から来たものではなさそうだ。

気になるのは風呂ノ本、風呂ノ奥などと位置関係を示す地名が多いことだ。「風呂と日本人」の中には風呂ノ下、風呂ノ前、風呂ノ西など位置関係を示す地名が登場する。

ということは風呂という何かが存在して、その前であったり奥であったりするわけだ。その風呂とはいったい何なのだろう。

 筒井氏が言うような石風呂の遺跡や痕跡があれば問題ない、しかしその可能性は薄いだろう。だからといって無視するわけにもいかないし、とりあえず一つ一つ現地を当たってみることにする。

 安栖里駅の南に風呂ノ元という地名がある(京丹波町安栖里)。由良川沿いに広がった河岸段丘で永正年間(1504〜1520)頃には十倉氏が居住したと言われるので、小字十倉はその地なのだろうか。風呂ノ元は駅の南側ののどかな住宅地で緩やかな斜面となりやがて山林となっている。風呂ノ元の上手、山側には竜心寺という寺院があり、堂ノ成という地名はそれに由来するものだろう。もしこの地に風呂があったとしたらこのお寺か十倉氏の居城に由来するものなのかと想像するが、それには何の根拠もない。地形的には上原町の風呂ノ本と一応は共通している。


無題.pngここで、仔猿の雑記帳というブログをご紹介します。

これに「泉福寺跡と石風呂」があります。

 既に二度ほど足を運んでいますが、一度は内倉武久氏と現地を踏んでいます。

 内倉先生は、“始めは製鉄遺構じゃないのか…”と言われましたが、風呂の遺構と受け入れられました。


「大左右」のバス停は「だいそう」と読むのだそうです。他所にも「・・左右・・」等と書いて「・・そう・・」等と読む地名もあるようです。その前にひとつお知らせです。大分県民の悲願であった、別大国道の拡幅工事が完成し、本日10時に全面運用が開始されました。車道6車線と海側には広い歩道が設置されています。かつては、なにかあると渋滞!渋滞!で酷道とさえいわれましたが、人にも、車にも、自転車にも快適な国道に生まれ変わりました。別府湾の綺麗な景色をゆっくり見ながらお散歩されては〜?さて今日は、杵築市山香町にある廃寺跡と石風呂をご紹介します。山浦地区に、周りを田圃に囲まれた小さな丘と森があります。

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泉福寺跡です。この小さな丘のすそに、国指定重要有形民俗文化財の「石風呂」が残されています。

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古墳の石室のようですが、今でいう「蒸気サウナ」でしょうか?内部の天井です。


私も始めて目にした時は古墳かとも思ったのですが、解説を見て氷解しました。

やはり、中国地方にある風呂地名の事が頭に浮かびましたが、やはり現物を見るのは全く別で、臨場感が迫ってきます。

この一帯にも三嶋神社があり、我々がトルコ系匈奴と考える大山祗であることから、シルクロードと石風呂によるサウナとの関係が見えて来るのです。

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内部の壁と床です。(左)

薬草を敷き下の焚口で火を焚き、熱くなると水をかけ、湿気で病気を治療したとあります。(右)


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廃寺跡には国東塔をはじめ多くの石塔も残されています。


人(仁)聞菩薩の話が冒頭から出てきますが、8世紀の国東半島〜宇佐の一帯では良く遭遇する僧侶の名です。

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大分県杵築市山香町大字山浦字長田


付近の神社が三嶋神社ですから大山祗系と考えられそうですね…。

 これまで、ひぼろぎ逍遥を丹念に読んでこられてきた方にも多分納得して頂けるのではないかと思うのですが、もはや疑いようは無いように思います。

 恐らく大山祗に象徴されるトルコ系匈奴の全国展開とこの風呂地名が対応しているはずなのです。

 ひぼろぎ逍遥のトップ画面には、


ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。

これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 と書いています。

 このM音とB音の入れ替わり現象によって、この室(ムロ)が風呂(フロ、ブロ)と読み替えられているのではないでしょうか。

 彼らは(恐らくトルコ系匈奴=熊襲=大山祗系)は呉音で室(ムロ)と読む傾向が崩れ、漢音で(フロ、ブロ)と読む傾向と対応している可能性があるのです。

 それが、以下にも反映されているように見えます。鹿児島県鹿屋市の事例です。


  鹿屋市     風呂段(ふろんだん)

  鹿屋市     輝北町上百引 風呂段(ふろだん)        *情報頂きました。

                 風呂段谷(ふろだんたに)     *情報頂きました。

                 風呂段村頭(ふろだんむろがしら) *情報頂きました。

                 風呂段村下(ふろだんむろした)  *情報頂きました。


ここでは、風呂(フロ)とも言う人々と、室(ムロ)とも言う人々が共存していた事を今に伝える痕跡地名のように思えるのです。

 日本語には、M音とB音とが入れ替わっても意味が変わらない言葉が非常に多く存在します。

室(ムロ)と風呂(フロ)もその一つの例だったのです。

 面白い事に、 無題.pngというサイトがあり、室(ムロ)地名を拾い出しておられます。

無題.png

…以下省略。

 ここの鹿児島から熊本を見ると、確かに頷けるものがあるようです。

 私の出身地の佐賀県唐津市にもこの石室がありますね。魏志倭人伝の上陸候補地の一つとして現地をおと訪れた事もありました。

 この「石室」は、臼状地の奥まった「室」=袋地と理解していましたが、今にして思えば、「石室」サウナだった可能性も捨てがたい思いがします。機会があれば再訪したいと思います。

無題.png

ただ、鹿児島県の事例は全て南の島嶼部で、本土は全て風呂に置き換わっているようです。

佐賀、長崎に風呂地名が存在しないと言う現象は気づいていましたが、恐らく海人族の色濃い地域には水浴文化はあっても蒸し風呂文化は異質で定着しなかったのかも知れません。

 結局、室地名はいつしか風呂地名に浸食されたか追い立てられ棲み分けが行われたのではないかと考えていますが、遠い列島の民族成立に関わる部分であって、あくまでも想像に頼る仮説でしかありません。

 このM音とB音の入れ替わり現象について体系的に論証を試みたのは永井正範氏でしたが、素晴らしい研究内容にも拘わらず、著書も出さずブログも書かない様では、ネットが主流の世界では存在していないと同義でしかなく、業績を残すことなく消されてしまうでしょう。この論文は太宰府地名研究会のHPを。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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