2018年10月12日

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社

20171207

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見 に於いて火の君の中心地がこの地であり、「泉」地名も確認できるとしました。以下、一部を引用。

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これもその一つですが、「霊符神社」という奇妙な名の神社があるのです。

結論から言えば八代の妙見神社の北上を考えれば符合するのですが、ここには百済の正統王族の避退を思わせる話があり、妙見と百済がそのまま繋がるとも思えない事から、尚、すっきりしないのです。

 まず、故)百嶋由一郎先生からは“八代の上に九州王朝の泉地区があります”という話を聴いていました。

 “八代の上“という表現から八代の妙見宮の上流の地区を探していたのですが、そうではなく、”八代の北“の意味で、当然、氷川流域の旧小川町、旧宮原町といった一帯で、元々、「火の君」の本拠地だったとの話もある場所なのです。

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ここで面白いと思ったのは百済の聖明王の一族の亡命の話です。これについては、過去何度かご紹介していますが、有明海の対岸、佐賀県の現白石町(旧有明町)に稲佐神社(百済の王族が祀られている)があり、この地へ火の君の世話で亡命したという話が残されているのです。それと同様の話をここでも拾ったのですからその裏を取ったような話なのです。


稲佐(イナサ)神社


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。

この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。


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八艘帆が崎(ハスポガサキ)佐賀県白石町稲佐神社の境内地の端に残る掲示板


 ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。

県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。                    

 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。…以下省略。


八代のそれは妙見=北極星、北斗七星が信仰の対照でしたが、これも同種のものなのでしょう。

一般的には旧八代郡の白木山神宮寺に鎮座した霊符神社が列島の最初のものとされていますので、これはその北への展開なのか、泉地名と火の君との関係からそれよりも遡るものなのかは今後の課題です。

私には「肥後国誌」以前が佐賀の久保泉に見えるのですが…。


 さてここから本稿を始めます。

 太宰府地名研究会のメンバーには二人の宮原さんがおられます(また、熊本のメンバーにもお一人)。

このお一人が橘一族の本流の後裔中の後裔であり、言わば橘一族の御本家の家系であることからその故地を探っていました。

 それが熊本県の現氷川町(旧宮原町)であったことから「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏と二日間を掛けてこの一帯の神社20社余りを調査する事にしました。

 氷川を挟む旧宮原町、旧小川町、旧竜北町のほぼ全ての神社を調査した事になりますが、泊地を八代市にした事から妙見神社と隣接する霊符神社にも足を延ばしました。

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かなり急な参道階段を上り詰めると霊符神社があります。

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百済の聖明王の第三王子琳聖太子が伝えたのが霊符神である…とされていますが、間違いなく旧小川町の霊符神社と同様の祭祀であり、聖明王の一族を受入れたとされる火の君が如何なる人々であったのかまでも一気に垣間見えた思いがします。

それは、肥前国、肥後国と間に筑紫国が貫入し言わば分断された二つの肥の国の支配者が、妙見宮に象徴される天御中主命=白山姫、白川伯王−豊玉彦=ヤタガラス−…遠く雲南省昆明から列島へと移動して来た白族(ペイツー)の後裔たる橘一族であった事、要するに火の君の一族とは熊本の白川という川の名までもを付した人々であり、恐らく阿蘇の熊野座神社の一族でもあること。彼等は南朝方(宮方)として戦った事。

さらに言えば、河童渡来伝承(キッパ族?)のある八代を考え、九千坊の筑後川の流域への移動(北上)が久留米の水天宮(本物の水天宮=天御中主命については宮原誠一研究が存在しますので、単に筑後川沿いの水天宮と考えない様に…)も無関係では無い事、奈良麻呂の変以降(島田丸が春日大社造営に際して何故河童を呼び寄せたのか…)の橘一族の没落と明治維新による復権など多くの事への解明の糸口が見えてきたのでした。

 してみると、この氷川流域の神社調査は重要過ぎるほど重要で、氷川流域一帯こそが九州王朝を支えた橘一族の元々の本願地であり、今後も絞り込んだ調査を進めたいと思うものです。

 最後に、いつも目を通している以下のサイトもご紹介し終える事にします。


無題.png今月貴重な資料を戴いたので紹介しておきたい。
『八代の鎮宅霊符神』これは『加藤清正公と鎮宅靈符神 No039で紹介した霊符よりも古いもののようにも思える。下方に記載の八代霊符の来歴が記載され貴重な資料となっている。
八代の霊符の版木は小西行長により灰燼に帰したが加藤右馬充により復刻されたという話が記載されている。この加藤右馬充とは加藤可重か子の加藤正方のどちらかであろうが霊符の効果を喧伝するとなると加藤右馬充正方と考えるほうが分かり易い。
加藤家の改易後に隠居したが、大坂で相場を張って巨利を博し、世間からはその出来事を隠居後の雅号である風庵をとって風庵相場と名づけられたという話がある。『八代城城主 加藤正方』
ただ自分にはこの霊符と一緒に挟まっていたものが気になる。

『水天八大龍王神霊符』版元が橘姓 渋江公俊となっている。渋江公俊とは知る人ぞ知る水難避け河童霊符の元締め無題.pngである。前回より河伯について記載していたがこの偶然にメッセージ性を感じている。
 渋江公俊は熊本の菊池市のとても分かりにくい原地区に天地元水神社を創立している。

『菊地市原の天地元水神社』

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 白川伯王こそが九州王朝の全期間を通じて支えた最大の実力者なのですが、初期だけを考えれば瀛氏の一族との強力なスクラムでイザナミ、オチノ姫、大幡主、天御中主…がこの一帯で活動していただろうことは否定できないのです。

 決して草深い奈良の山の中辺りの話ではないのです。

 これに加えて。メンバーの中島氏から情報を頂きました。

 勿論、「火の国」の話です。

 佐賀県には淀姫神社(佐賀市大和町の與止日女神社は、式内社であり肥前国一宮で旧社格は県社ですが、「河上神社」とも呼ばれる)がありますが、この神社の参拝殿には「火國鎮守」と書かれていたのです。

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淀姫神社参拝殿正面上部


この「火國鎮守」が肥前国が火ノ国であり火の君の支配下にあった事も伝えているのです。

なお、「淀姫」についてはネット上から「淀姫」を検索して下さい。

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 研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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