太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年10月03日

502(後) 大山祗とは月読命が貶められたもの!? A

502(後) 大山祗とは月読命が貶められたもの!? A

20171128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


桜島港に程近い月讀神社は、和銅年間(708〜715年)には創設されたと伝わる由緒ある神社です。

「桜島」の名前の由来とされる「コノハナサクヤヒメ」もあわせて祀られています(名前の由来には諸説ありますが、その中のひとつです)。 大正噴火で溶岩の下に埋没しましたが、昭和15年、現在の位置に移設されました。


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前ブログで、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが実は木の花の姫であり、都萬神社の前に桜川が流れ、関東では桜姫と呼ばれたとの話をしましたが、何故、桜島と呼ばれているかは大山祗=月読命と考えれば理解できるでしょう。

また、東北の月山神社では月読神が、湯殿山には大山祇神が祀られているのですが、これも同一神であることから、現場を確認しその尻手を掴みたいと思うばかりです。以下は宮原誠一氏の第7稿です。

                                                                         

平成29(2017)0509

宮原誠一の神社見聞牒(007)

田主丸町・月読神社 考

二田・月読神社 所在地 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田) 祭神  月夜見命


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東町・月読神社 所在地 福岡県久留米市田主丸町田主丸546-1(東町) 祭神  月読命

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由緒と奉斎氏族

福岡県内で「月読神社」と名づく神社が公開されているのは、明治初期では、田主丸町二田(ふたた)の月読神社のみである。田主丸町東町の月読神社は、明治13(1880年)二田の月読神社から勧請されている。

その神社の由来記であるが、二田月読神社には存在しない。東町月読神社の由来記が転用され、知れ渡っているのが実情である。しかし、その由来記となると信憑性が怪しい。


東町月読神社の由来記は次の通り。


由緒(案内板)

天文3年正月(1534年)(御原郡高橋城主)三原三河守長種の弟・次郎三郎が城内の月読神社を、竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣)に創建す。明治136(1880年)篤志家により当地へ勧請す。開運眼病平癒の神様として崇敬者多く三夜様と敬稱す。


伝承

昔、竹野郡二田村(旧福岡県浮羽郡田主丸町石垣)に住む林次郎三郎の母親が目の病に罹り、いろいろな事をしても回復しませんでした。そこに村の長老から月読命を祀る祠があることを林次郎三郎は教わります。

それから毎日欠かさずお詣りしていると、ある日、大雨が降って祠が水没してしまいました。林次郎三郎は「また大水がきたら神さまも寒くて大変だろう」と祠ごと家に運び込んでお祀りし母親ともども拝んでいると、ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。それは天文3(1534年)正月23日のこと。

古賀又左衛門という両目を患った者がある夜のこと、夢の中で月読尊から「両目の病を治したければ月読の神が鎮座する二田村を訪れよ」とお告げがあり、林次郎三郎宅を毎日訪れ「目の病が治りますように」と祈願すると、わずか17日で目の病が治ったのだとか。その後、眼病平癒で訪れる人々が絶えず参拝に訪れるようになったといいます。

寛延2(1749)年のこと。娘が目を患っていることを気の毒に思っていた柳川藩(現在の福岡県柳川市)藩主が月読神社が眼病平癒にご利益があることを知り、代参者を林次郎兵衛宅へ赴かせ娘の眼病平癒を祈願したところ、37日後に娘の目が良くなったとのこと。大変喜んだ藩主は、二田村の林次郎兵衛宅の祠を現在の地に移し、社を建てたのが、現在の二田「月読神社」といわれています。


二田村の月読神社を、田主丸の町中の人達が明治13(1880)6月東町に勧請して東町「月読神社」となる。毎年123日〜25日に「三夜さま」と呼ばれる祭りがあり参拝者で賑わっている。


由緒記も伝承も曖昧さが残る。

まず、由緒記であるが、「御原郡高橋城主 三原三河守長種」とあるが、「高橋三河守長種」が正しい。また「長種の弟・次郎三郎」とあるが、弟は存在しない。兄は「高橋高種」である。高橋高種(1470-1515)は筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16(1484年)母方の縁者畠山氏を頼っている。よって当主は「高橋長種」である。

「母親の目の病」を治す伝説であるが、これは古事記の「月読命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成された」からきているのであろう。確かに二田村及び周辺には林家が多く存在する。

あながち否定とは行かない。

私も子供の頃、祖母から月読神社にお参りすると目が良くなると教わった。123日の「三夜さま」には寒さを押して参拝に出かけた。その人出は大宰府天満宮のように賑わっていた。東町月読神社の賑わいは本家の二田月読神社をはるかに超えていた。


これらの由緒伝承は、「古賀 勝」氏の「筑紫次郎の伝説紀行」の元となっている。


ある朝、目覚めた母親が甲高い声を更に張り上げた。母親は、座敷の神さまに手を合わせた後、裸足のままで家を飛び出し、南の山を見上げた。

「鷹取の山(802b)がはっきり見えちょるたい」

母親の興奮は収まりそうにない。

「月読の神さんが、わしにもう少し生きろと言ってくれよりなさる。今日この日は、死んでも忘れんばい。それで…、今日は何日かいの?」

「今日は天文3年の正月23日たい。忘れんごと、祠に彫り込んでおこうない」

それからである。話を聞いたあちこちの目を患った人々が、毎月「3」のつく日に、「お三夜さんにお詣りせにゃ」と、次郎兵衛の家を訪ねてくるようになった。

古賀 勝氏の「筑紫次郎の伝説紀行・眼病封じのお三夜さま」より抜粋


田主丸町二田は古代、二田郷と呼ばれた物部の地であった。

私は二田月読神社の由来を調べてみようと福岡県神社誌を見てみたが、記載されていなかった。また、「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」を見てみたが、これにも記載されていなかった。あの「三夜さま」と呼ばれる田主丸町では有名な月読神社の開基由緒がどこにもないのである。

二田月読神社の社誌が昭和20年発行の福岡県神社誌にもない、久留米藩への書上げ状も提出されていない。不思議に思った。

神社の成り立ちは、二田の地に二田物部氏が奉斎する月読命の祠があり、近代に社殿を伴った神社が建立されたと見るのが自然であろう。


寛文十年(1670)久留米藩社方開基

  二田村

一、天神宮壱体木像 社九尺に二間萱葺

一、天神宮壱体木像 社壱間四面萱葺

 右両天神 毎年十一月十一日に祭礼仕候。於神前御供・御酒奉備、祓祝詞読執行仕候。

開元之時代知不申候。縁起・記録・宝物并末社無御座候


福岡県神社誌中巻

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1670年「久留米藩社方開基」の二田村では天満神社二社と書かれて、月読神社は存在しない。

また、昭和20年の福岡県神社誌では天満神社があり、月読神社(祭神・月夜見命)は合併とあり、「天満神社」となっていて、氏子は大字増生田二田18戸となっている。

しかし、現実には田主丸町二田に天満神社は存在しなくて月読神社が存在するのである。

やはり、月読神社は表向き秘密にされたのであろう。

最新の社殿建築は建立上棟札に安永2年(1773)8月とあり、関係者26名の名前が記されている。月読神社の灯籠、鳥居、棟札に記された名前を拾うと、「岩佐家」が多く刻まれている。

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無題.png田主丸町二田区には、「岩佐家」が多く、「中島家」、「堤家」が続く。村の周りには「林家」、「中島家」、「中野家」がとり囲むように家々が存在する。


岩佐氏といえば、茨城県つくば市の筑波山神社の宮司・岩佐氏が出てくる。


筑波山神社

鎮座地  茨城県つくば市筑波1-1


宮司名  岩佐

御祭神  筑波男大神(伊弉諾尊)筑波女大神(伊弉冊尊)

摂 社  稲村神社(天照大御神)・安座常神社(素盞鳴尊)

小原木神社(月読尊)・渡神社(蛭子命)

由 緒  (抜粋) 崇神天皇の御代、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来、筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。


無題.png筑波山神社の由緒から岩佐家が物部氏と係わっていることが見てとれる。


ひぼろぎ逍遥(管理人・古川清久) 20170205

スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か? から抜粋


月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?

「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。(中略)


二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には増生田から石垣にかけて)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。


179 天高く青空に誘われ日向の神社探訪 C“西都原に大山祗命の痕跡がある!”

ご紹介するのは西都市の石貫神社です。

西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。(中略)

由緒

当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。

社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。

(中略)

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。


やはり、大山祗命を追求すると不思議と「石・岩」の付された地名、神社名に出くわす。

古代、筑後耳納山麓一体に展開した民族こそトルコ系匈奴を主とする物部氏族だったのです。

田主丸町二田、石垣に展開する二田物部は優れた技術を西アジアから持ってきている。石垣組等の土木技術、現代建築に採用されている軸組み木造家屋、製鉄、そして農業面では瓜等の野菜、ぶどうの持ち込みを行なっている。製鉄は浮羽町の山奥の新川地区、妹川地区で密かに製鉄と武器の製造が行なわれた。そして、奉斎する氏神が月読命=大山祇命または妙見宮だった。

筑紫弦田物部等祖・天津赤星を久留米市宗崎の鶴田村に祀る赤星神社は表向きで、神社そのものは妙見宮となっている。後に弦田物部は筑豊の若宮市鶴田に移動展開する。その妙見宮の祭神は天御中主神であり、月読命の母にあたる。この民族一団を私は「大山祇ご一行」と呼んでいる。

田主丸町二田の周辺には岩佐家、中島家、堤家、林家、中野家の家々が展開するが、ここで、久留米を中心に北筑後地方に数多く展開する「石」「岩」のつく名前の氏族を拾ってみた。


石井、岩井、石橋、大石、黒岩、石崎、石田、石貫、岩永、岩佐、石松、石丸

立石、岩下、岩村、岩下、岩田、岩崎


結構な数が拾えました。石井、岩井、石橋、大石、岩田、岩崎という姓がくれば、各界の有名人がそろって出てきます。また、地名もそろって出てくる。

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二田月読神社の破風のぶどうの彫刻 七老神社のぶどう・野菜の彫刻

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朝倉市・杷木神社の境内社・七老神社

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天津赤星を久留米市宗崎の鶴田村に祀る赤星神社(妙見宮)


古代、九州には中国大陸、朝鮮半島から多くの民族が移住してくる。なかでも、中国南部の白族の大幡主系、トルコ系匈奴の大山祇系の民族集団は熊本から九州を北上し、久留米耳納山麓にやってくる。そして流れを二手に分け、一方は東の耳納山麓に進み、奥浮羽地区から分かれて、大山祇系は朝倉地方に、大幡主系は日田地方へと展開する。

また、一方は久留米をさらに北上し佐賀背振、筑紫野さらに福岡市へと移動していく。

耳納山麓に展開した大幡主系民族は橘集落を形成し、トルコ系匈奴の大山祇系民族は物部集落を形成する。

こうしてトルコ系匈奴の大山祇系民族集団は筑後一帯に筑後物部を形成していくのである。


旧竹野郡二田郷

二田月読神社がある旧竹野郡二田郷の地は、筑後物部氏の領域であり、田主丸町石垣の二田郷は二田物部の地として和名抄に出てくる。二田物部の発祥の地である。二田物部は物部二十五部族の筆頭でもある。

また、生葉郡吉井町は町名が示すように物部の地である。特に、吉井町耳納山北麓の小家郷、物部郷はその色彩が強く、「物部」姓を持つ家々が存在する。

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生葉郡の「和名抄」では、大石・山北・姫冶・物部・椿子・小家・高西の7郷があり、うち大石郷は旧大石村、山北郷は山北村に、椿子(つばこ)郷は旧千足駅中心に朝田・東隈・西隈その一帯、小家郷は小江、橘田、溝口一帯(旧小江村付近、原鶴の南西)、物部郷は浮羽町小塩、吉井町福益・富永・屋部の耳納山北麓一帯、姫冶郷は新川一帯、高西(こせ)郷は妹川一帯に想定される。


物部氏に関する『先代旧事本紀』の天神本紀には、ニギハヤヒの降臨に同行した面々の記載がある。その出自地と推定される地名をみると


五部人を副へ、従となして天降り供奉らしむ

 物部造祖     天津麻良

 笠縫部等祖    天曾蘇

 為奈部等祖    天津赤占

 十市部首等祖   富々侶  筑前鞍手郡十市郷、筑後三毛郡十市郷

 筑紫弦田物部等祖 天津赤星 筑前鞍手郡粥田郷鶴田、筑後御井郡鶴田


五部造を伴領となし、天物部を率ゐて、天降り供奉らしむ

 二田造 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷

 大庭造 筑前朝倉郡大庭村

 舎人造

 勇蘇造 筑前・糸島郡深江村磯崎

 坂戸造 


天物部ら二十五部人、おなじく兵伏を帯びて、天降り供奉らしむ

01二田物部 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷

02当麻物部 肥後益城郡当麻郷

03芹田物部

04馬見物部 筑前嘉穂郡馬見郷

05横田物部

(以下省略)


福岡県三井郡大刀洗町本郷に郷社の高良玉垂神社がある。この神社の社殿の基礎は玉石組である。

また本郷に接する春日・平田区には坂本神社(祭神・坂本命、社紋・木瓜)があり、社殿の基礎は玉石組であり、この地区の方は多くが平田姓で物部氏である。

これら神社と社殿の基礎の玉石組をみることにより物部氏の係わりが見てとれる。

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本郷・高良玉垂神社社殿の玉石組基礎

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福岡県太刀洗町春日・平田区の坂本神社


次に、妙見神社・月読神社と物部氏の関連がみられる地域と神社を久留米、耳納山麓、浮羽郡、三井郡に限定して拾ってみた。


1.物部胆咋(八世当主)と高良山妙見神社、高良下宮社

2.弦田物部(天津赤星)と高良内坂口・赤星神社・妙見宮

3.久米物部と久留米市小頭・小頭神社(天手力男命、天鈿女命)境内社月読神社

  久留米市京町・日吉神社・境内社月読神社

4.山本郡草野物部と須佐能袁神社・境内社月弓神社

5.田主丸町二田物部郷と月読神社

6.御原郡本郷物部と本郷甲條神社(天照大神宮)・合祀・倉稲魂命・天御中主神

7.生葉郡物部郷と吉井町横町・高御魂神社(妙見社)、若宮月の丘古墳内・月読宮

8.浮羽姫冶物部と新川妙見宮(高御魂神社)・小塩妙見宮


饒速日命と天鈿女命が共に祀られている神社

1.久留米市大石町・伊勢天照御祖神社 饒速日命と佐岐神社・伊勢下宮豊受神

2.久留米市京町・日吉神社 猿田彦神と天鈿女命

3.久留米市大橋町蜷川・箱崎八幡神社 矢五郎と保食神

4.久留米市北野町仁王丸・天満神社境内社 幸神社(猿田彦神)と地神社(倉稲魂命)

         仁王丸区には香月姓(物部一族)が多い

5.うきは市吉井町若宮・八幡神社境内社 伊勢宮と猿田彦神


久留米一帯、三井郡、浮羽郡の耳納山麓に結構な数を拾うことができました。


私は考古学には詳しくないので想像の程度になるが、古代の墓制で甕棺墓制は大幡主系民族で主に用いられ、その後、大山祇系民族の九州北上と共に石組技術がもたらされ、石室(石組)の円墳が造られるようになったのではなかろうか。耳納山北麓におびただしい石室の古墳が散在する。特に、二田地区北麓、二田、石垣、平原の三角地帯に石室古墳が130以上密集する。これも二田物部と石組技術が関連していると思う。また、現代でも耳納山北麓の田主丸町では石組を用いた造園業者が多数存在する。二田物部の石組技術が古代より継承されてきたのではないかと思うのである。


田主丸町誌からの抜粋紹介

以前、田主丸町誌編纂室が設置されて、編集員は田主丸町二田が物部郷と確定し調査をおこなっている。しかし、結果的に日本書記以上のことを見出すことはできなかったようである。

この町誌に二田物部と二田月読神社が紹介されてから、東町月読神社と共に広く知れるようになった。


福岡県()浮羽郡田主丸町二田の二田物部について

竹野郡の二田郷の名義は、二田物部という物部一族が住んでいて、二田郷の名が残ったという。平安初期に作られた『新撰姓氏録』をみると、ニギハヤヒ(物部の祖)が天降りするとき、従者の二田物部が同行してその子孫が二田物部になったとしている。

竹野郡の西の郡境に近い山本郡(現 久留米市)に、矢作部(やはぎべ草野町)という所がある。矢を遣る集団として、矢作部(矢部)が置かれたところで、さらに筑後川に面した御井郡の弓削郷(現 久留米市合川町・三井郡北野町)には、弓を作ることを職とする弓削部がいた。ここで作られた弓・矢などが生葉郡の物部や竹野郡の二田物部の手に渡ったり、あるいは百済に送りこまれたりしていたのではないだろうか。筑後川の右岸に位置する肥前国三根郡(現 佐賀県三養基郡北茂安町)にも物部郷があった。これに壱岐島石田郡の物部郷を加えると、生葉郡物部郷-竹野郡二田郷-三根郡物部郷と筑後川を下り、海を渡れば壱岐島につながる。物部大連が朝鮮半島に出兵するときに、真っ先に兵士として動員される村人たちであった。二田物部の人たちも筑後川を有明海に向けて下り、朝鮮半島遠征に駆り出されたものと考えられる。


三夜様

田主丸町の月読神社は別名「三夜さま」と呼ばれる。

この「三夜さま」は月齢が三夜、十三夜、二十三夜の三の日がつく三夜を指していう。

月を愛でる風習は旧暦八月十五夜の満月の「中秋の名月」が有名である。その他に三夜の三日月、十三夜月がある。特に、月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、人々が集まって月の出を待って供物を供え、無事息災を祈り飲食を共にする古い風習がある。月の出を待って月を拝む集りで、二十三夜のことを「さんやまち」といった。今では「さんやまち」は、単に仲間同士が定期的に集まり、飲食する親睦会的な機会と考えられる。旧暦の二十三夜は、満月ではなく下弦の月となり、真夜中に東の空に昇り始める。


十三夜(じゅうさんや)

十五夜(中秋の名月)の後に巡ってくる十三夜をさし、旧暦9月13日のお月見のことを云う。中秋の名月の後なので、「後(のち)の月」とも言われる。十三夜は、十五夜に次いで美しい月だといわれ、昔から大切にされてきた。また、十三夜には栗や枝豆を供えることから「栗名月(くりめいげつ)」「豆名月(まめめいげつ)」ともいわれる。


母親ともども拝んでいると、ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。

それは天文3年(1534年)正月23日のこと。今日この日は、死んでも忘れんばい。

それで…、今日は何日かいの?

今日は天文3年の正月23日たい。忘れんごと、祠に彫り込んでおこうない

古賀 勝氏の「筑紫次郎の伝説紀行・眼病封じのお三夜さま」より抜粋


田主丸町の月読神社は正月23日が例祭で「三夜さま」と呼ばれる。

上記伝承の23日から「三夜さま」が採られたわけではない。

古代人にとって、月齢二十三夜は特別な夜であったのである。

月暦を採用する「こよみ」では、新月から満月、そして新月になる29.5日を1ケ月とした。暦の1ケ月は30日と29日が原則交互に組み込まれる。実際には30日が続く月もある。すると、1年間は254日となり、1年365.25日に満たない。11.25日足りない。それを補うために約3年に一度閏月を挿入する必要があり、1年13ヶ月となる年を設けた。これによって、暦と季節の関係を調整したわけで、旧暦では閏月の入る年を閏年といい、閏月の入らない普通の年(平年)は1年が353日〜355日、閏年は384385日になった。

閏月は、原則として二十四節気の「中」を含まない月とし、その前の月と同じ月名に「閏」をつけて呼び、例えば「閏五月」というように呼んでいる。


二十四節気

旧暦は、閏月を入れることによって暦と実際の季節の関係を調整するが、それにしても、閏年の前と後では、同じ月日でも30日近く季節が異なってしまう。これでは、暦を元にして農業などを行うわけには行かなくなってしまう。そのため、暦の中に季節を表すものを入れて、この不都合を防ごうとした。これを二十四節気という。

二十四節気は、立春、雨水、啓蟄、春分・・夏至・・秋分・・冬至・・大寒と、全部で24ある。二十四節気は、太陽が一年で一回りする道筋(黄道)を24等分(太陽黄経の15度毎)し、太陽がこの点を通過する日時によって決める(定気法)。このため、二十四節気が暦に記されていれば、そこから季節を知ることが出来る。


旧暦で閏月を入れる機械的法則はない。ただし、「冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月にする」という一条を加えて、これに反しない範囲で適当な月に閏月を配置する。そのために、どの月に入れるかで季節感がずれ、特に農業のモミの種まきの時期が季節的にずれることは避ける必要があった。また、1年の時期を正確に知るために、星の位置の観測を行なった。


太陽暦では、春分日を正確に定め、それを起点に何日目に何の日とした。例えば八十八夜の若葉の茶摘、210日の台風襲来というように。よって、春分日を正確に観測する必要があった。春分点は地球の歳差運動により70年に1日ずれていく。また、1年365.25日による閏日の追加が必要であった。そのために古代では春分点を正確に捉えるための春分点観測所を設ける必要があった。


それに対し、月暦では1年の時期位置を星の位置の観測から求めた。その星の観測に適した夜が月齢の二十三夜である。

二十三夜の月は月齢が下弦の日で、真夜中、現地時間で午前零時に東の空から月出する。この時が星の観測の時刻であった。今みたいに時計のない時代は月時計で代用したのだ。そのため東の空から月が出るのを午前零時まで待つ必要があった。それが二十三夜の月出待ちとなり、二十三夜の月待信仰が生まれたのであろう。


上弦の月と下弦の月はどう見える

半月は別名、弓張り月あるいは、弓月と呼ばれる。月の形を弓に見立てた。

そして、弓に見立てた場合に、月が西に沈む頃、その「弦」にあたる「欠け際」が上を向く場合を上弦の月、下を向く場合を下弦の月と呼び区別した。

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http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0215.htm


実際に、上弦の月は夕方に南中し、西の空に没する頃は真夜中であり、没する頃の上弦を見ることが出来る。下弦の月は朝方に南中し、西の空に没する頃は真昼であり、没する頃の下弦を見ることは出来ない。下弦の月は真夜中に東の空に月出し、上弦の状態で見ることになる。

よって、現実としては、上弦の月は夕方に南中し、右半分が明るい。下弦の月は朝方に南中し、左半分が明るい、とみた方が理解しやすい。


南中:天体を観測している所から見て、天体が真南に来た時。

日本標準時:太陽が春分日に東経135度にかかった時を正午とする。現在、使用されている時計の時間を言う。よって、九州では正午になっても太陽は南中せず、やや東寄りにある。

天体時(現地時間):太陽がその地点に南中した時を正午とする。


 長々と引用させて頂きましたが、要は、物部二十五部族でも筆頭に掲げられる二田物部の本拠地の一つであったと考えられる福岡県久留米市田主丸町の二田〜石垣〜田主丸町の中心部に掛けて月読神社があり、石○型地名と月読命との関連が見て取れ、石垣とは石貫同様に石城の置換えであり、遠くシルクロードのタシクルガン(中国表記「石城山」)が確認できる事であり、その「石城山」をそのまま表現した山口県光市の石城山に神籠石と石城神社(大山祗を主神とする)を確認できる事から、石○型地名を介して大山祗=月読命という方程式を多少とも読取る事ができ、物部氏の本隊がこの祭祀を持つ人々であった事までもが見て取る事ができるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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