2018年09月13日

495 肥後、薩摩国境の温ノ谷に息づく神社を参拝して見た “水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社”

495 肥後、薩摩国境の温ノ谷に息づく神社を参拝して見た “水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 不知火海沿岸の人々の人生を水俣病と言う国家ぐるみの作為と不作為によって台無しにされたのが、旧厚生省とチッソの城下町であった水俣市ですが、水俣病が顕在化し始めた当時、市街地に住んでいる人々は薄々窒素の毒水が入った魚は危ないとして水俣湾で捕れた魚が売れなくなり、影響を深刻に理解していなかった山で売られていたことから、町から遠く離れた山でしか水俣湾の魚が売れず、こうして市街地から遠く離れた山間部にも水俣病が拡散されたのでした。

 丁度、福島の米とか魚などが深刻に意識されていない西日本で格安で売られている事と同じ現象がかつても起こっていたのでした。

 一般的には水俣湾に臨む湯ノ児温泉が知られていますが、アクセス道路の不備から今や人波が消えた忘れられた温泉の谷が湯ノ鶴温泉でした。

 数十年前、鹿児島県側の山側から、一度、訪れた事があったのですが、この地域に足を踏み入れていない事を思い出し、今般、熊本で集まりを持ったついでに足を延ばしたのでした。

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早速、「熊本県神社誌」の水俣市の部分を調べましたが、全く掲載されていないのです。

 相撲場、桟敷席もあり、それなりに古い神社である事は分かるのですが、全く掲載されていないと言う事は、この地が薩摩藩との国境の要衝の地であり、侵攻路の集落であった事が関係していたのかも知れません。

 これについては熊本県神社庁で調べて見るつもりですが、どうせ何も分からないのではないかと思うばかりです。

 後は自分で判断するしかありません。

 幸いにこの神社は顔の見える神社であり、とりあえず由緒書だけは残されていました。


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神社の由緒書きをそのまま信じるかどうかは絶えず意識していますが、ここには他に摂社、境内社の類が存在しない事から、この縁起は真実を伝えていると思われます。

 まず、一般的に肥後に出雲の神様が祀られていると言うこと自体が不釣り合いである上に、無理して偽装するならば、肥後に出雲の神様を持ち込むはずはないからです。

 ただ、この事によって、通常、大国主命が肥後に祀られないと理解されるのは短絡になりますので敢て否定申し上げておきます。

 熊本市西区の西里付近の川東大名己貴神社は隠れた大国主命祭祀の痕跡ですし、山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の最奥部に大国主命祭祀(大国主大明神)の巨大神額が残されており、江戸時代までは普通に大国主命が祀られていた事が分かるのです。

 これ以外にも大国主命祭祀の痕跡はあるはずなのですが、肥後はその痕跡潰しが著しかったという印象だけは深まっています。

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狭い谷間に五軒ほどの旅館が並ぶ湯ノ鶴温泉


 肥後の最辺境部だからでしょうが、ここにも大国主命祭祀を発見した事はそれなりの発見でした。

 神社庁関係者の方に逆にお尋ねしたいのですが、何故、この神社が神社誌に掲載されていないのか?また、何故、出雲の神様とされる(あくまでもされるですが…)大国主命がこの僻陬の地に存在しているのかを御説明頂きたいものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この大国主命祭祀問題については ひぼろぎ逍遥 492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは” を読んで頂きたいのですが、今のところこの現象の解析については、幾つかの仮説を立てています。

百嶋由一郎最終神代系譜を見て頂ければお分かりの通り、大国主命は大山祗(トルコ系匈奴=熊襲)と埴安姫(雲南省昆明から海南島を経由して列島に進出した白族)の間に産まれた大幡主(博多の櫛田神社の主神でヤタガラスの父神)の配下の入ったプリンスなのです。

当然にもコノハナサクヤヒメとその父神である大山祗は、西都市の都萬神社や石貫神社で祀られており、石貫神社正面には大山祗命の墓とされる古墳(第2古墳群)までがあるのであって、宮崎県都農町に鎮座する日向国一の宮の主祭神が大国主命である事を考え合わせると、球磨川以南の南九州にはこのトルコ系匈奴と考える人々が大量に侵入し、北の卑弥呼の一族を圧倒していた時代が存在していたのではないかと考えています。

このため、球磨川流域でも大国主命、大山祗祭祀を確認しており、九州王朝の中期と考えていますが、この祭祀形態が筑後川流域にまで広く展開していた時代があったのではないかと考えています。

と、ここまでは言えるのですが、そのまま直線的に平面化して良いかどうかは、まだ疑問を持っています。

と、いうのは、大国主命、大山祗祭祀の基層に菅原神社系祭祀(勿論道真は象徴でその両親を意味する二つの流れ)を発見する事が多い事から、その痕跡がどこかに残されていないかを考えていました。

すると、観光用掲示板の隅でしたが、集落の下手にもう一つの神社を見出しました。

 一般的に肥後の神社は阿蘇系ばかりと考えられているようですが、肥後の3500社を考える時、1300社が菅原系であるという事実があります。

 そう考えて、その神社を見に行くと、案の定天満宮でした。

 つまり、この集落の下層には、道真に象徴される、両家(金山彦系と大幡主、ヤタガラス系)祭祀が存在していた可能性を思わせるのでした。

 そう思って街並みを散策していると、菅原系に見掛ける梅鉢紋が認められる事に気付きました。

 やはり、大国主命祭祀が覆い被さってくる前には、確実にスサノウ系、金山彦系祭祀が存在していた事が見て取れるのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:15| Comment(0) | 日記
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