2018年08月27日

490 素晴らしい龍の手水石の神社 “国東市糸永の八坂神社”

490 素晴らしい龍の手水石の神社 “国東市糸永の八坂神社”

20171010

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


頻繁に九州島においでになっている内倉武久氏に書道家の井上悦文氏と三人で国東半島の探訪に入りました。と、言っても、何度も入っていますので、特別な思い入れがある訳でもありません。

 今回は、国東市でもかなり内陸部の朝来(ここも福岡県朝倉市や兵庫県朝来市と通底している事は言うまでもありません)の八坂神社を見に行こうと思って、隣の谷の糸永の八坂神社を踏んでしまったというお粗末な報告です。

 谷違いで同名の神社があるのですから間違っても仕方がないとは言えるのですが、この八坂神社が隣の谷にもあるというだけでも、この「朝来」という地名を持つ氏族(民族)が如何なる人々の後裔であるかを考えさせられるところです。

無題.png

国東半島とはその形状を見ただけでも火山性の土地である事が分かります。

 このような火山性の土壌の土地ではその地質から雨水は地下に浸透しやすく、少しでも低い溝を流れ下る事からいくつもの舌状台地を削り込みさらに複雑な地形を形成します。

 このため水田稲作のための農耕地は細長い谷に堆積した耕土に求める事になります。

無題.png

お分かりでしょう。一目瞭然ですね、国東とは谷に住む人々が造った国なのです。

 そして、山上には六郷満山の修験の山岳パルチザン勢力がいたのです。

だからこそ、近畿大和朝廷の復活でもある明治政府は、この九州王朝系氏族の後裔でもある修験の武装集団を潰したのでした。

まあ、これは勝手な思いに過ぎませんので無視して頂いて構いません。

この一帯で卓越するのは大山祗系神社(山神宮、山神社…)でもあるのか、八坂神社に表現される古代のスサノウ系もしくは金山彦系氏族の展開地であったこともが見えて来るのです。

さて、ここには素晴らしいばかりの石垣と龍の手水鉢があります。

手元に神社の資料がないため、今回はこの見事なまでの龍の手水鉢と石垣を見て頂くだけに留めます。

 元々は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのですが、祇園神社、祇園社…とされていたものが、明治の神仏分離令により「八坂神社」と改められたもので、修験の要素が完全に消されたものが八坂神社なのです。

無題.png

では、ご覧いただきましょう。

無題.png

これほどのものはまず見掛けません。この一帯が明治まで大きな財力を持っていた豊かな土地であった事が良く分かります。その資金源は製鉄だったのかも知れません。

無題.png

無題.png祇園社から八坂神社へと変わったことは前述したとおりですが、裏参道に廻ると、鳥居には祇園社と書かれていました。

 この神社にも幾つかの摂社がありますが、ある程度見当は着くものの、こうだとは言い切れません。

 結局、見事な龍の手水鉢と素晴らしいばかりの剃刀さえも入らないような石垣の技術などを見ると、砂鉄による製鉄が主力であった明治まで、この国東が如何に豊かな土地であり、大きな経済力を持っていたかという事が分かるのでした。

 しかし、ここの石垣には感心します。半世紀前まで、石工は二人掛かりで一日働き、石垣を一個づつ組んで行ったと言いますが、これほど立派な石垣は見たことがありません。豊かな財力あっての事です。

無題.png
無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: