太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年04月12日

445(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

445(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

2017071520100409)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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写真「長生きも芸のうち日記」http://barakan1.exblog.jp/3284047/より画像借用したもの


民俗学者の谷川健一といえば、『青銅の神の足跡』『白鳥伝説』などで著名であるこというまでもありません。古代史を探求する人々のなかにも、少なからずこの傍流の探求者の影響が底深く浸透していることについては否定することができないでしょう。

ただ、吐き気を催すような『東日流外三郡誌』偽書問題の空騒ぎでは、歳の功からか?学者諸氏の先頭に名を連ね祀り上げられたことでも知られています。はたしてそれが、誠実な学者の姿勢を示したものだったものか、ただの御用学者どもが尻尾を振った揃い踏みに加わったものに過ぎなかったのだったかは将来に待つこととし、ここでは、氏の業績として良く知られた地名の研究から話を始めることにしましょう。

氏は沖縄など南西諸島に数多く分布する奥武(オウ)島や青の音の付く地名の研究から、本土の「青」地名は古代まで遡る葬地ではなかったかとしたのです。

※奥武島は南城市、久米島、座間味村、名護市など


谷川健一の「青」論


 詳しくは氏の著作その他に当たられるとして、ここではその一端を引用します。


  …沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにくいものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また、海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。…


…たとえば鳥取市の西にあたる湖山池(こやま)の南岸には、青島が浮かんでいる。そこは縄文、弥生、古墳期にわたる遺物を出土している小島である。この湖山池には江戸時代に水が汚されるという理由から、火葬の灰を流すことを禁じた法令が出たといわれている。つまり、青島がかつては水葬の地であったことを暗示させる風習が江戸時代までつづいていた。湖山池より更に西の東郷池の浅津(あそうず)ではかつて墓のない村が八百戸もあり、火葬したのちに遺骨の一部を残して他の遺骨や灰を東郷池に捨てたという。田中新次郎はこれを水葬の名残と見ている。…


『日本の地名』(岩波新書)から“沖縄の青の島”


…対馬の西海岸にある青海(おうみ)という集落では、埋め墓は波打ち際にあり、詣り墓、供養する石塔は、すぐそばのお寺にある。したがって、死体そのものは波にさらわれていくのに任せるのである。…

近著『民俗学の愉楽』(現代書館)から“青の島とようどれ”

 谷川はどうせさもしい安本某から唆されただけだったでしょうが哀れな話です。


船王後墓誌と安保(アボ)


船王後(船氏王後)墓誌は江戸時代に柏原市松岳山古墳の墳丘上部から出土した約30cmの銅製の板で表と裏に一六二の文字が刻まれていますが、錆によって完全な判読は難しいとされています。ただ、裏の方は保存程度が良く、ある程度は読めるようです。

 この船氏は河内国丹比郡を本拠とする渡来系氏族といわれ、その王後は舒明天皇から冠位第三等の位を授けられたとされています。

 一応、現存する最古の墓誌であり、山城国の小野毛人の墓誌とともに注目されていることはいうまでもありません。

これに関して、東京古田会ニュースNO.13120103月)に古田武彦氏による「近世出土の金石文(銘板)と日本歴史の骨格」という論文が掲載されました。ただ、この趣旨は今回私が述べようとするものとは別のものになりますので、一般的な未読の方も考えて概略を紹介しておきます。


 その第二は、「船王後墓誌」である。大阪府柏原市の古墳から出土し、現在三井高遂氏の所蔵となっている。

 「惟船氏故 王後首者是船氏中祖 (中略) 即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の長文である。その中には三人の天皇と、当人船王後との関連が語られている。

 辛丑(641)十二月三日が「庚寅」。夫の死。戊辰年(668)が妻の死。干支との関係から、「時限」が特定できる。ところが、関連する天皇名は

 @(おさだ)宮 A等由羅(とゆら)宮 B阿須迦(あすか)宮の三天皇であるが、従来当てられてきた三天皇(敏達・推古・舒明)とは、ピッタリ"対応"はしていない。たとえば、阿須迦天皇は推古でなく、舒明に当てざるをえない、等である。

 その上、致命的なのは三天皇間の用明・崇峻・皇極・孝徳・斉明・天智(585671)等の天皇名がすべて「無視」されている点である。この銘版は「天皇名と当人との対応」が主眼である点から見れば、不可解である。

 さらに、当の船王後が「大仁」にして「品第三」という顕官であるのに、日本書紀に一切その名が出てこないのである。

 以上、2例とも「同時代史料」としての銘版は(金石文)と、日本書紀・続日本紀が一致しないこと、この事実は何を物語るか。他でもない。日本書紀・続日本紀の側の「造作性」と「虚構性」をしめす。この帰結以外にはない。 


2009103日 近世出土の金石文(銘版)と日本歴史の骨格 古田武彦


同日 東北大学文学部で行われた日本思想史研究会10月例会で報告(『年報日本思想史』第9号に、収録予定。) 


 さて、古代史よりも地名や民俗学に関心を寄せる者として、また、地名研究の側面から古代史に近接しようとする者として、この古田論文に書かれていた原文にしばし釘付けとなりました。

驚いたのは、大変失礼ながら先生の論旨である「記」「紀」の矛盾などではありません(その点についてはただただ傾聴するのみです)。

私の関心事は、「即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の「安保」とは墓、墓所、葬地を意味しているのではないかという一点でした。六〇年安保の「安保」ですから、勢い、安らかに保ちとか解釈しそうですが、そのような意味ではないように思うのです。 

若輩者による我流の読みとしては、「即ち安保(アボ)をなす。万代への霊基は牢固(しっかりしていて)にして、永劫(未来永劫までの)の宝地なり」となるのですが、当然にも動詞は「為す」となり、同時につくるという意味を持ってもいます。

要するに、ここに書かれている「安保」とは文の流れからしても、墓、葬地、聖地の意味ではないかと考えたのです。

 では、安保(アボ)が本当に墓所と葬地と考えられるのでしょうか?

実は、実際に「安保」という表記の地名があるのです。一般的に、青地名は日本海側に特に多く、山口県長門市仙崎港沖の青海島、丹後半島は舟屋で有名な伊根の青島(アオシマ)、福井県小浜市の蒼島など数多く認められますが、「アボ」と読める地名を九州で数例を確認しているのです。ご紹介しましょう。


安 保(アボ) “天草上島と長崎市香焼に残る古代の葬地名”


奇妙な地名対応


長崎市香焼町の東海岸に安保(アボ)と梅ノ木という地名があります。

ところが、熊本県の天草上島の不知火海に面した旧栖本町、倉岳町の境界にも、阿房(アボ)、阿保(アボ)と梅ノ木という同様の地名群が存在するのです。

まず、表記は異なるもののアボと呼ばれる全く同じ地名が離れた場所にあり、同様に複数の関連地名が近接してある場合、ただの偶然として済ますことはできません。


長崎市香焼町 東海岸一帯の安保(アボ)、梅ノ木「長崎県広域・詳細道路地図」昭文社

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※ 昭文社の道路マップを使用していますが、著作権の問題があり、解像度を極限まで落としています。


天草上島の南海岸、旧栖本町、倉岳町境界の阿房(アボ)、阿保(アボ)、梅ノ木

同じく「熊本県広域・詳細道路地図」昭文社

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このあまりにも不思議な地名対応についてひとつの仮説を立てました。まず、…

1)阿房、阿保、安保と表記されるものの、等しくアボと呼ばれていることから、恐らく、谷川健一によって提唱された葬地としての青(アオ)地名の一つであり、古くは水葬がおこなわれていた土地、場所と考えられるのではないか。

2)近接する梅ノ木という地名は、この水葬が禁止され埋墓に切り替えられたものではないか。

3)梅ノ木地名は、青地名が単独で存在する場合は、水葬地が同一の場所で埋葬墓に切り替えられたとも考えられるが、近接して並存する場合は水葬地が埋葬の不適地であったため別の地を求めた可能性もあり、水葬と埋葬が並存した時期があったとも考えられる。

4)アボは青(アオ)地名の変化形であり、粟、安保、安房、阿保、阿房、檍…と表記されている。

当然にも同じ言語文化や葬送儀礼を持った民族集団が移動したと考えられる。


アボと梅ノ木


もしも、この想定が正しければ、既に太宰府地名研究会で“高良岬の麓から”33.青木(アオキ)として書いた青地名の説明が必要になってきます。それは同稿を読まれるとしても、青と言えば、当然にも大家谷川健一を無視することはできません。谷川氏は「安保」(アボ)という表記のアオ地名を取り上げていないため、「阿房」、「阿保」を含めたアボ地名なるものは地名研究にも先例がないものであり、未知の分野に入り込んだことになります。

 また、アボと梅ノ木(恐らく埋ノ木)の組合せはあまりにも出来過ぎた話ですが、この例は外にもあるようです。もとより、単独での梅ノ木地名は多くの例があるのですが、宮崎県小林市と高原町の境界にも蛇行して流れる辻ノ堂川左岸の小林側に阿母ケ平鉱泉があり、右岸の高原側に梅ノ久保という地名があるのです。ここではこのような地名対応がほかにも存在していることだけをお知らせしておきます。


天草の阿保、阿房


アオではなく、アボと呼ばれる地があることは、江ノ島(現長崎県西海市)のアボ鼻や屋久島の阿房(ここには粟生という地名もあります)を始めとして知っていましたが、前述の天草の阿保も釣りで何度も訪れていたところから以前からなじみのある土地ではありました。

しかし、最近になって長崎市香焼の安保がアボと呼ばれていることを地元教育委員会に確認し、さらに、両方に梅ノ木があることに気づいて以降、一刻も早く現地を踏み確認したいという思いにかられていました。

二〇〇九年夏、ようやく機会を得て佐賀から有明海大迂回のコースで天草上島に向かいました。

阿保、阿房は直ぐに見つかります。まず、地図を見ると、旧栖本町側に阿保というバス停があり、阿房は旧倉岳町側にある地名のようです。

現地に着いて直ぐに傍らの家を訪ねて数人のご老人からお話をお聴きすると、

@    阿保は入江の西側通路沿いにあり栖本町の集落である

A    二十年ほど前までは入江東側の倉岳側にも数戸の家があった

B    阿保は漁業権のない集落で、船大工、漁具作り、鉱泉を沸かして訪れる漁師などから湯銭を取っていた

C    湾奥には農業を行う家が数戸ある

D    一人の老女から「嫁いだ頃、昔は刑場だったという話をお爺さんから聴いたことがある」という話を採集した。

と、いったことが確認できました。八十歳近いご老人からの話ですから、今のうちに採集しておかなければ、恐らく十年程度で散逸する話ですから非常に貴重です。

ここで重要と思うのは、恰好の入江のある集落であるにも関わらず、漁師は全くいない、つまり、漁業権をもたない集落であったという事です。

谷川健一の『日本の地名』にも、「地先の海の権利は地元の漁民がにぎっており、…」

(ソリコ船に乗ってやって来た人々)と、ある種の差別を受けた漁師集落の話が出てきますが、そのような人々であったからこそ、辺鄙な村境にしか住むことが許されなかったのであり、不要になった土地だったことが推察されたのです。そして、決め手は全くないものの、この地が、かつて、水葬が行われていた場所ではなかったかという想いが一層深まったのでした。

次に梅ノ木に向かいました。梅ノ木(埋ノ木)が水葬を禁止された後の埋葬地であるという推定はあまりにも安直でにわかには信じ難いものですが、なによりも現地を見るべきでしょう。

しかし、実際のところ驚きました。小高い小丘に濃厚な墓地があったのです。聴取りはこれからですが、確信は一層強いものになったことだけは申し上げて良いと思います。

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左が阿保の集落            潮が引いた阿保の入江

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※ 相賀は自信がありません。佐賀県には太良町に青木平という小字はあります。


香焼の安保


長崎市内の渋滞を避け直接野母崎(長崎半島)に入る道もないことはないのですが、当然にも悪路になります。

野母崎の東海岸はその地形の険しさから道路改修がままならないのですが、このような僻陬の地を好む者にとっては格好の民俗学的トレッキングとなるのです。

ともあれ、野母崎の付け根の香焼は、今も造船所がフル稼働といった様子でした。国際的な物流が大規模に崩壊したにも関わらず、かつての造船ラッシュ時に建造された船の買い替え需要などから、なおも新船建造の注文がかなりあり、手持ちの建造計画が残っているようです。

戦前、戦中は川南造船が陸軍相手に上陸用舟艇やら軍用船を造っていたのですが(香焼では陸軍の輸送用潜水艦“○ゆ”も造っていたと聞きます)、現在では持ち主が替わり、三菱重工の巨大な造船所に変貌しています。

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三式潜航輸送艇は、日本陸軍の潜水艦。通称のまるゆで知られる。「ゆ」は「輸送用」の頭文字。


陸軍のご用達であった川南造船は戦後の造船疑惑の中で意図的に潰されたようですが(米国は米内、井上、山本といった親英米派の海軍系を許した?)、その後を引き継いだ三菱長崎の工場として、傍目からだけですが今もそれなりの活況を呈しているようです。

 目的地の安保は確かにアボと呼ばれていました。早々に集落を見て廻りました。今は住宅が建て込みそれなりの町でしたが、どうも歴史を感じさせないのです。

 バス乗り場にたむろしている年金生活者と思しき老人の中に割って入り、お話をお聴きすると、

1)    ここはかなり海側に埋立てが進んでおり、六、七十年前の海岸線は五〇〜一〇〇メートルは引っ込んだところにあった。

2)    戦前は数えるほどの家しかなかった。話を聴いた老人が小学生の頃も、元から住んでいた家は数軒しかなかった。現地は小山を背中にした幅の狭い浜辺でしかなく、農業はもとより、漁師の集落でもなかった。

3)    戦前は香焼炭鉱や川南造船所向けの物資の積み降ろし用の船着場だった。

4)    戦後はボタによって埋め立てられたところに炭鉱住宅などが建てられ、それなりの町ができたが、閉山後は跡地を買い取った開発会社が住宅地として分譲し家が建て込んだ。

5)    隣の尾ノ上は漁師の集落だったがここには漁師はいなかった。

6)    埋葬には梅ノ木鼻の付け根に埋めに行っていた。


無題.png以上ですが、重要なのは阿保との呼び名はあるものの、元々は人の住む集落ではなかったということです。周辺の集落の配置状況から推測すると、安保は香焼島(昔は独立した島だった)でももっとも辺境の場所であり、もしも水葬が行われていたとすればここしかないように思えたことです。

 最後に、梅ノ木の確認に行きました。かなり高い岬が北に伸びています。先端まではおいそれとは入れないようですが、その付け根辺りには想像通り墓が密集していました。

 墓はどこにでもあると言われればそれまでですが、少なくともそのような感覚を超える頻度のように私には思えるのです。そもそも、香焼島もなにやら葬地を思わせるのです。


上は香焼造船所

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長崎市香焼の安保             梅ノ木の墓地群


安保 清種


安保、阿保、阿房といったアボ地名について考えを巡らせていると、安保清種(アボキヨカズ)のことを思い出しました。司馬遼太郎の「坂の上の雲」が再びクローズ・アップされていることもあり、今後、安保海軍大将の話も耳にすることも多少はあるでしょう。

戦前の濱口雄幸(ハマグチオサチ)内閣における海軍大臣であり、日本海海戦時の巡洋戦艦三笠(黄海海戦では矢作?)の砲術長としても知られる人物です。

ここで、515事件、統帥権干犯問題、海軍の艦隊派と条約派の対立についての話までするつもりはありませんが、阿川弘之の著書にも良く登場する人物であり、これまで考えて見れば気づかなかったことが逆に不思議になります。

取上げるのは当然にも「安保」という姓でありその背後にある地名です。ここから安保清種の周辺調査を始めることになりました。驚いたのは「安保」が私の地元の佐賀県の出身であったということでした。鹿児島かと思っていましたが、これには正直驚かされました。佐賀には安保という地名はおろか姓もありません。ただ、調べているうちに本名は沢野であり、林家の養子になっているようなのです。さらに、林は安保に改姓していると知り、納得もし、安心もした次第でした。

実父は海軍草創期の沢野種鉄であり佐賀中学から海軍兵学校18期生となる。規定局長の林清康少将(のち海軍中将)の長女との縁談が進み林家の養子となる。養父と実父から「清」「種」の字を貰い林清種に改名している。後に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。一九九〇年、養父の死去に伴い男爵となる。

一九二七年、海軍大将に就任し一九三〇年には濱口内閣で海軍大臣となる。その後、統帥権干犯問題から海軍でも英米派が後退し、徐々に条約派は力を失って行くことになるのですが、面白過ぎるのでこれ以上は深入りしないことにしましょう。

一九三四に予備役編入、三五年後備役に編入となり四〇年に退役。一九四八年に七十七で没。

 林清康中将の林家は広島県とのこと、安保村の出身であったかまでは調べられませんが、尾道市の沖合に浮かぶ向島、向島町に安保村があったことは分かっています。

特に、尾道が民俗学で良く取上げられる家舟の拠点であり、土地も漁業権も持たぬ海洋民と「アボ地名」との関係が一層強まったように思えます。恐らく、遠い昔(民俗学ではそのようにしか言えない)、揚子江流域から渡ってきた人々がもたらした言葉や地名にアボもあったように考えるのですが、ここから先は、無論、暴走となるでしょう。


アホとバカ


ここで、さらに面白い問題に気づきます。もはや、アオ、アボが古代の水葬の地であったことに疑いを持つことはできませんが、それとは別に、関西のアホと関東のバカという言葉もこの葬地と関係があるのではないかと考えていました。アホはアオ、アボが起源となっている。馬と鹿で説明されるバカも実はバカ(墓)が起源ではないかという仮説です。

もちろん、馬と鹿に別の逸話があることは存じていますが、何でも疑ってみるのが古川定石です。ただ、これも思考の暴走に過ぎず、葬地を意味する言葉と偶然の一致に過ぎないのかもしれません。

それは、馬鹿(バカ)が古く、阿房(アホ)が新しい言葉であり、その分布から方言周圏論(同心円の外側に古い言葉などが残る)で説明できるからです。これは、ほぼ十五年前に出版された松本修による『全国アホバカ分布』(大田出版)に書かれていることですが、東のバカ、西のアホではなくアホの外側にバカが分布しているからです。

 この至ってまじめな民俗学的考察には、阿房という言葉が平安末期に中国の南部から入ってきた可能性があることが触れられており、アボという言葉が比較的新しいものであることが書かれているのです。 

もちろん、このすばらしいまでの先行図書を概ね受け入れているのですが、まだ、僅かな可能性を残しておきたいと思うものです。

 いつの時代においても、運悪く政治的騒乱に敗残した人々は、命までは奪われなかったものの全ての財産を奪われ土地を追われます。自ずと普通の人が嫌う危険地や墓地など条件の悪い場所に住み着くことになるのですが、そのような敗残者(楯突くからこうなるのだ)を嘲る言葉としてアホとバカが生まれたのではないかという意味です。五〇〇ページ近い『全国アホバカ分布』にはかなり正確な分布図が作成されていますが、もしかしたら、ある時代の敗残者(従って政変)が反映されているのかも知れないのです。


秦の始皇帝の王宮は阿房村にあった


もしかしたら阿房宮や始皇帝陵と関係があるのではないかという話ですが、さらに一層、推論が過ぎるでしょう。ただ、大陸の征服者が先住者の聖地、陵墓を破壊し自らの王城や墓所とする例があることを知っています。とすると、多くの古文献が「倭は呉の大伯の後」(周の大伯)を伝えるのですから、倭人が周の末裔と言えなくもなく、同一民族ではないとしても、阿房村の周辺に住んでいた先住民族の言語が倭人に継承されていたのではないかと考えたのですが、暴走に過ぎません。

一般的に、「民俗学の手法では応仁の乱前後までしか遡れない…」といったことが言われます。今回の確認は一例に過ぎないものの、大きく遡行するものであり、改めて地名の遺存性に驚きを感じるものです。

一応ここでは、安保という言葉や地名がこの時代(七世紀)まで遡り、同時に一定の示標とできるということを確認したにとどまるでしょう。


青谷上寺地遺跡と巨大墓地


鳥取市に考古学界で、近年、脚光をあびる青谷上寺地遺跡があります。山陰本線青谷駅のそばの資料館に行くと、脳の化石とか、我々の眼からは隼人楯としか言いようのない逆S字型渦巻き紋の残る板とか面白いものが身近に見学できるのですが、二〇〇九年夏、内倉武久氏(『太宰府は日本の首都だった』など)ほかと共に現地を踏みました。

資料館で二時間余り詳細に展示物を見たのですが、元々、青谷を青地名の一つとして来ている私は、周辺調査に入りたくてしかたがありませんでした。当然にも水葬の痕跡を何か探れないか?でしかありません。当然にも、民俗学者の宮本常一がそうしたように、背後地の小丘に登り、まず、町全体を見渡すことから始めましたが、遺跡から直ぐの浄土宗と法華宗でしたか、二寺の裏手の小丘に登ると、息を呑むばかりの、巨大墓地を見出したのです。まず、最低でも一辺三五〇メートル(一○万平米以上)はあろうかというもの凄さなのです。感情の高まりから多少割り引いて頂いたとしても、中学校のグランド3個分と言えば理解してもらえるでしょう。

古代において巨大な潟湖(セキコ)であったはずの青谷は、その時代、日本海側の重要な港湾集落(都市)であったはずで、多くの海洋民が乗り入れ、半ば住み着き、根城としていたことが想像できます。

そして、この巨大墓地が往古の海の民の水葬の歴史の上にあることは、まず、間違いないのではないかと思うものです。

次の画像は資料館に展示されていた航空写真を手持ちのいい加減なデジタルカメラで撮ったものであり、ハレーションもあって判りにくいかもしれませんが、小丘の中央が全て墓地なのです。学校のグランドと比較していただけることでしょう。

最後になりましたが、出雲大社で有名な出雲半島北岸にある小さな浦々の集落には、どこにもほど遠くない無人島がありますが、驚くことにその多くを青木島と呼んでいることもお知らせして本稿を閉じたいと思います。十数代まえまで、彼らはその毎日見る沖合いの小島に自分たちの身寄りの死体を置き続け、先祖への祈りを重ねてきたことでしょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:12| Comment(0) | 日記
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