太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年01月03日

411 第三次奥出雲調査に行かなければならない B

411 第三次奥出雲調査に行かなければならない B

20170511

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以下の小論は ひぼろぎ逍遥 403「百嶋神社考古学」概論 001 “出雲とは何か?”として書いたものですが、奥出雲の神々を考える上で重要ですので、百嶋神社考古学からどう考えるかをまず知って頂きたいと思います。

巷では大和朝廷に先行する「古代出雲王国」とか“九州王朝に先行する古代出雲王権”といった大げさな話が横行しているようですが、これは近畿大和政権による偽装ではないかという事を考え始めたのは最近の事でした。

@  “大国主を出雲の国の人だと思っておられる方がおられますが全くの誤りです。”と言われたのは故)百嶋由一郎氏でした。

A  “出雲はいたるところにあったのです。”という奇妙な話をされていてこれまで意味が分からなかったのですが、最近になってようやく意味するところが分かるようになってきました。

恐らく先生が言いたかったのは、列島の開拓段階での事であり、全体としての大幡主系と言うか、白族(大幡主)、越智族(大山祗)、瀛氏(金山彦)の連合体とも言うべき忌部、卜部…が展開した入植地こそが出雲だった、現出雲はその多くの出雲の一つだったという意味だったようなのです。

B  従って、出雲を「イズモ」と読み呼ぶのは、本来、誤りで、出雲は「イン」と呼ぶべきなのです。

C  つまり、忌部(豊玉彦)の展開した讃岐、阿波、紀国、忌部の一員であった大国主が後から展開した現出雲もそうであり、九州島内にも出雲地名(飯塚市桂川)があるように、この旧忌部が展開していた地域が、今もモザイク的、斑状に存在しているのです。

D  出雲は「出」をイズルの「イ」、「雲」をウンと読めば、「イ+ウン」で忌部の「イ(ム)ン」と一応は読めるのです。

E  では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。

F  これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

G  最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。

H  従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

I  このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。

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大己彦命


宗像の神と言えば、宗像三女神と誰もが考えておられるでしょうが、百嶋神社考古学では、祭神を「大国主命」とします(ウムギヒメ、キサガイヒメは宗像三女神のうちのお二人なのです)。

出雲神話の神様の「大国主命」が祀られているなどとんでもない話だ!と言われるかもしれませんが、それなりの痕跡はあるのです。

落ち着いて考える必要があるのですが、神社のフィールド・ワークを行っておられる方には分かることと思うのです。まず、出雲系と言われる神社が多いのは圧倒的に九州なのです。

これは、計量的に調査を行うことが難しいのですが、熊野神社、諏訪神社、祇園社、須佐神社というものがあまりにも目立ちすぎるのです。

しかも、唐津市湊の沖には、神集(カシワ)島と呼ばれる島まで鎮座しているのです。

古代この地で神無月に神集まりが行われていたのではないかと考えています。

勿論、宗像大社が誰を祀ろうが、それはその神社の自由であり、その時々の判断でどのようにされるともとやかく申し上げる立場にはありません。

ただ、私達が知りたいのは古代の真実であり、正しい古代史の姿だけなのです。


『古事記』『日本書紀』によれば、三女神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨し、以降、国家の守護神として崇敬されています。また、「日本書紀」には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが 記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。

道主貴(宗像三女神)以外には、伊勢神宮の 大日靈貴(おおひるめのむち)(天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けら れていたかがうかがえます。

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今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭~是也


今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る~、是也。【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 読み下し】


「古代史獺祭」(こだいしだっさい)による


これまで気付いていなかったのですが、宗像大社が、“三女神を 道主貴(ミチヌシノムチ)と最も尊い神として崇敬を受けていたとしている“こと自体が実は証明であると思うようになりました。

「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。は、それで良いのですが、この三女神を大国主命(大己貴)に戻せば整合性がとれ、本当の祭神が「大己貴」であったと証言していたように思えます。

これは、いつの時代かに「大己貴」が「道主貴」という畿内から半島や大陸への道を司る重要人物という意味に書き替えが行われたのでしょう。

さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社の「稀人の間」同様のものがあり、一部には大国主命が祀られているとも聞きます。

事実、隣の岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野という地名があります)には堂々たる「大国主神社」がありますが、参拝殿が西を、つまり、宗像大社の方角を向いているのです。

恐らく、この大国主神社の存在は、広く宗像一帯に神威を誇っていた時代の名残だったのでしょう。

太宰府地名研究会のエース伊藤正子女史(「太宰府・宝満・沖ノ島」の著者)の講演の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されました。伊藤女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。

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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。

13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がない熊本県山鹿市の志々岐神社に巨大な大国主命の石塔を見たことでした。

 確認したい方は 熊本県山鹿市志々岐1852 志々岐阿蘇神社 を訪ねて下さい。

 どうやら、私達は大和朝廷が仕組んだ「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。

今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。

最後に、この宗像大社の近くにも幟を揚げた大国主神社がある事からご紹介しておきましょう。

岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野という地名があります)には堂々たる「大国主神社」がありますが、参拝殿が西を、つまり、宗像大社の方角を向いているのです。

恐らく、この大国主神社の存在は、広く宗像一帯に神威を誇っていた時代の名残だったのでしょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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