太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年09月04日

372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社について”

372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社について”

20170220

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、その裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。

 そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。

 これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるといった話で皆さん納得されているようです。ネット検索をして頂ければ例外なくそのように解釈されているのです。

 ところが、百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。

 恐らく、全てをご理解だったのだと思います。

勿論、これについてはただの手書きメモが残されているだけで、それ以上の事は聴かされてはいませんが、ようやく大方の見当が付いた事から後世の研究のためにも所見を残しておこうと思うものです。

 櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。

 きっかけは、前述のとおり、百嶋由一郎氏が残された手書きメモでした。

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この花本大神に関わる百嶋先生のメモは以前から気にしていたのですが、少し調べれば分かる事ながらなかなか思い立たずに放置していました。

ところが、大分県豊後大野の神社調査を行っていると、同市の清川町に鎮座する宇田姫神社に遭遇しました。

この神社の由緒を読んで見ると、華の本の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。

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少し込み入った話になるため、ここでは短絡する(される)ことのないように、まずは同地の宇田姫神社の祭神である宇田姫様が「華の本」と呼ばれている(いた)事だけを理解して下さい。

 さて、宇佐神宮とも覇を競った大神一族が豊後の大野郡や直入郡に蟠踞していた事は知られています。

 特に有名なのは宇佐神宮焼き討ち決行し後に処断された緒方三郎惟栄は有名です。


緒方惟栄

緒方 惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。惟義惟能とも。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟。

平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。

宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。

こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

また惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。

ウィキペディア20170320 19:55による


男と生まれたからにはかく在らん…と思わんばかりの武人としては実に素晴らしい経歴ですが、この緒方惟栄こそ、阿蘇大蛇伝説の大神惟基の後裔にあたるのです。

 この阿蘇大蛇伝説に関わる大分県竹田市の穴森神社については別稿としますので、ここでは触れませんが、この巨大洞窟を持つ穴森神社とこの宇田姫神社の洞窟とが通じているとの伝承から、自らを祖母山の大蛇の子であり化身であるとしたのが大神惟基であり、その後裔が緒方惟栄という話になるのです。

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つまりは、祖母山の大蛇伝説に準え自らを大蛇の子孫であるとして権威付けを行うために設らえたのが宇田姫(華ノ本)であり、祖母山の大蛇が宇田姫に通い産まれたのが大神惟基であるとしたのでした。

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さて、時代は流れ流れて戦国期から江戸時代に移りますが、博多の商人として名を馳せた大賀宗九がいました。

 この一族が櫛田神社の花本大神の石塔(石柱)を寄進したのではないか(後に造り替えられた可能性はあるのですが)?と百嶋由一郎氏はお考えだったのだろうと思います。

 だからこそ「花本大神」として大神一族の「大神」(オオガ)の名がはっきりと刻まれているのです。

 勿論、大神一族の全盛期は鎌倉以前に遡ります。

 しかし、歴史の波に呑まれ権勢を奪われ処断されるのですが、それに併せて元々存在していた「花本大神」は豊後の大神一族とは無関係であるとする必要性に駆られ、何時しか松尾芭蕉の神号との話に変えられたものと思われるのです。とにかく宇佐神宮焼き討ちをやった連中の後裔かも知れないのですから。

 本来は、このような背景を考察し深層を探る事こそが本来の歴史探究の作業であり、研究者の責務であるはずなのですが、村興し町興しから果ては西洋基準に踊らされた世界遺産登録だかに狂奔する文化的荒廃の元では真相は一向に見えて来る事はないのです。まあ、無様なものです。


大賀 宗九

大賀 宗九(おおが そうく、永禄4年(1561年) - 寛永7513日(1630623日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商人。島井宗室・神屋宗湛とともに「博多の三傑」と呼ばれる。名は信好(のぶよし)。子孫は代々福岡藩黒田家の国元御用商人をつとめた。子の二代目は、茶人でもあった大賀宗伯。…中略…

大賀家は元々、大神氏の姓を名乗る豊後国の武士で、大友氏に仕えていた。父を早く失い、貧困に苦しんでいたが、主家の滅亡とともに武器商人に転身し、慶長から元和年間にかけて海外貿易を行なうようになった。この頃、中国人の助言により大賀に改名した。そして、長崎から明に渡り、20年以上海外で暮らし、巨万の富を得る。

のち大賀家は博多商人の筆頭町人となり、江戸時代を通じて博多部の管理を任され幕末まで続いた。家業は金融業を主とし(金貸し)で財をなした。大名貸しでは肥後細川藩、高鍋藩秋月家などに行っている。 博多商人の家格においては『大賀格』が基準とされる。(博多部は商人のみの街であり、武家が屋敷を持ったり住む事は無く、あくまで武家は福岡側に屋敷地を与えられた)大賀家自体は幕末明治を乗り越え、現在は福岡市で不動産業等を営んでいる。

ウィキペディア20170320 20:33による


 “大賀家は元々、大神氏の姓を名乗る豊後国の武士で、大友氏に仕えていた。”も正しいかどうかは今後の課題ですが、しかし、実は話はこれにとどまらないようなのです。

それは、宇田姫神社の祭神が本当に大神惟基を宿した「華の本」こと宇田姫だったのか?という問題は残るのです。そして、宇田姫神社の神額には「宇田社」とあります。

百嶋神社考古学では、大国主命と市杵島姫命との間に産れた下照姫こそ本来の「花本」であり、それを自らの権威付けのために大蛇伝説と絡め出自としたものこそ大神一族の「華本姫」の正体のようなのです。

 そして、その下照姫こそ百嶋由一郎神社考古学におけるウガヤフキアエズのお妃のお一人なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:44| Comment(0) | 日記
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