太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年07月06日

352 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”A

352 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”A

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 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


高良大社系神社鎮座地HP暗号「山上憶良」目次」地図上の不思議な発見より)


例えば、幻の「筑紫舞」が奉納されていることから九州王朝との関係が囁かれる宮地嶽神社は全国に3000社あるとも聞きますが、高良玉垂宮、高良神社と呼ばれるものは、筑後地方以外にはあまり見かけません。

HP「地図上の不思議な発見」というサイトでも取り上げられていますが、鹿児島の一例を除き、筑後に集中していることがお分かりでしょう。

1.柳川市(5社)2.山門郡(4社)3.三池郡(1社)4.大牟田市(2社)5.大川市(2社)6.三潴郡(7社)7.筑後市(4社)8.八女市(1社)9.八女郡(6社)10.久留米市(2社)11.浮羽郡(1社)12.三井郡(1社)13.鹿児島県日置郡(1社)以外は福岡県

これは神社帳のデータで作成されているのかもしれませんが、鹿児島県神社庁のHP「神社を探す」にも高良神社が出てきます。


神社名:高良神社 神社名カナ:コウラジンジャ 

鎮座地:〒899-3514 南さつま市金峰町新山1540 

例祭日:十一月十五日 通称: 旧社格:郷社 

神紋: 摂末社:0 社宝: 

御祭神 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)応神天皇(オウジンテンノウ) 神功皇后(ジングウコウゴウ) 武内宿禰(タケウチノスクネ) 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト

由緒 創建年代は不詳であるが、旧阿多五社の一つで、阿多の神社では最上の社格をもっていた。

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またの名を高良八幡宮、または、玉垂宮とも称された。

め中岳の中腹に鎮座していたが、天文七年十二月二十九日、島津忠良公が第二回の加世田攻めに当たり当社に戦勝を誓願し、それによって永禄二年己未十一月二十日、現在地に遷した。往時は阿多郷士による武士踊りも奉納され、盛大を極めた。明治四十三年九月十四日花瀬の村社稲荷神社を合祀した。


このサイトに対しては、多少、失礼になるかもしれませんが、実際にこれ以外にも高良神社、玉垂神社と呼ばれるものがかなりあります。


佐賀県武雄市永島町花島の玉垂宮、長崎県南島原市口之津町の高良山神社、同じく有家町の玉垂宮…、遠くは近畿地方でも、石清水八幡宮の正面の高良神社や明治になって打上(打上の意味は御簾を揚げること)神社と名を変えた寝屋川市の高良玉垂神社、栃木県野上町、島根県松江市の高良神社などがあります。

 また、可愛山稜で知られる鹿児島県薩摩川内市の新田神社の参道筋にも高良神社が置かれて残されていますし(写真)、大分県の国東半島、国見町の伊美別宮、岩倉社、岐部別神社は八幡宮とされていますが、左殿、右殿に高良社、仁徳天皇の配されており、祭神が入れ替えられる前は高良玉垂命が祭られていたことが分かります。


実は宇佐神宮においてさえ、以前は上宮の第二殿(実は勅使門を持つ正殿)の門の上に阿蘇神と高良神が祀られていたと神社関係者から聞いています。

さて、飯倉神社です。『川辺町郷土史追録』の記述が正しいとすれば、天智天皇の皇女玉依姫と天智天皇が揃っていることから、鹿児島県特有のいわゆる「大宮姫伝承」に対応するものであり、大和朝廷成立前後の最末期の九州王朝の抵抗派の痕跡と言えるでしょう。

これについては前述のとおり、古賀達也による“最後の九州王朝”鹿児島県「大宮姫伝説」の分析をお読みください。

また、「大宮姫伝説」については私も古田史学の会の会報に伊倉48として書いていますのでお読みください。


伊倉 四十八 “薩摩半島先端の大宮姫伝説”

 薩摩半島南端といえば、西の坊津、野間池は置くとしても、まずは開聞岳、長崎鼻、池田湖、指宿温泉といったものが頭に浮かびますが、指宿市には揖宿神社があります。
この神社の縁起によれば、祭神は天智天皇とされ、古くは「開聞新宮九杜大明神」と呼ばれていたものが明治維新によって「揖宿神社」と改称されたとあります。
 八七四年に開聞岳が大噴火を起こした際に開聞神社外が指宿に避退したもので、それ以来、開聞新宮九杜大明神と名を変えたものと思われます。
 枚聞神社がそうであったように、この神社にも「天智天皇が大宮姫と共に指宿で天寿を全うした」という大宮姫伝承があります。
 今年の大晦日(二〇〇六年十二月)に訪れた薩摩の一宮、開聞岳の麓の枚聞(ひらさき)神社に大宮姫伝承があることは言わずもがなであり、比較的知られてもいますので、先に指宿市の西隣に位置する頴娃(えい)町の大宮姫伝承についてご紹介しましょう。
 頴娃町の海岸には射楯兵主(イタテツワモノノカミ)神社があります。ただ、この神社は古くは竃蓋(かまぶた)神社と呼ばれていました。祭神は素戔鳴命とされてはいるものの奇妙な伝承が残されています。

 まず、頴娃町にはこれまた不思議なのですが、御陵という地名(JR指宿枕崎線にも御領駅があります)があります。もちろん、御陵や御所という地名は幾つかありますので、それほど珍しいものではありませんが、薩摩半島の先端にあるのが奇妙という意味です。それはともかくとして、奇妙な伝承とは“天智天皇と大宮姫がこの御陵の安藤実重中将を訪ねた折に饗応のために大釜で米を炊いたところその釜蓋が強風で飛ばされその蓋を祭った”というものです。
 ただ、この話については、熊本地名研究会のメンバーでもあるために、地名学と民俗学の側からある程度の説明ができると考えています。ご存知の方もおられるかも知れませんが、民俗学者の谷川健一氏の『続日本の地名』(岩波新書)に登場する永尾神社の話がそれです。
 間違いがあると大変ですので、詳しくは同書を読まれるとして、ここでは極めて簡略化した話をします。熊本県宇土半島の旧不知火町(現宇城市)に永尾(えいのお)神社があり、この氏子はエイを食べないとされています。このことに着目した谷川は、柳田国男以来の南方文化論の延長に南から移動してきたエイをトーテムとする集団が住み着いたとするのです。この永尾神社は海に向かって突き出した尖った岬の上に建てられています。つまりエイの尾に乗っているのです。さらに、沖縄ではエイをカマンタと呼ぶのですが、この這い上がったエイが乗る山が鎌田(かまた)山と呼ばれているのです。もう、お分かりでしょう。頴娃町のエイはスティングレイのエイであり、竃蓋神社のカマブタとはエイの現地名であるカマンタ(マンタ・レイも有名ですね)が持ち込まれている可能性があるのです。
 これは、熊本地名研究会の小崎龍也氏が谷川の永尾地名説に基づき新たに展開されているものですが、私も九州に五〜六ヶ所の永尾(えいのお)地名を発見しています。 
酔ノ尾(鹿児島県いちき串木野市)、釜ノ尻(鹿児島県東町獅子島)、永ノ島、エイノ鼻(長崎県佐世保市)、江ノ浦=下釜(長崎県諫早市)です。詳しくはHPアンビエンテの「地名は時間の化石」を見て下さい。

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恐らく、頴娃町の釜蓋神社の話はエイ=カマンタを祀る部族が住み着き、その地形との一致もあり釜蓋と表記される地名が生まれたのでしょうが、いつしかそのことが忘れ去られ、後発の大宮姫伝説が重なって饗応のための釜蓋が飛ぶという話に変わったと考えられます。
 さて、話を枚聞神社に戻しましょう。ここでは大宮姫伝説にまつわるもう一つの話をします。

 皇后来
 開聞岳が海に落ち込む山麓には大規模な熔岩塊の海岸線が広がっていますが、その西の一角に皇后来(コウゴウライ、コゴラ)と呼ばれる小さな入江があります。コゴラは恐らく皇后浦の転化したものでしょう。枚聞神社から西に四キロほど走ると入野駅に着きます。
 外に近道もありますが、少し下った入野道地、脇といった集落のアコウ群落の美しさを堪能して向かうことをお薦めします。皇后来は直に分かります。鹿児島県による解説を読むと、

皇后来
 天智天皇の后大宮姫が志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り、山川の牟瀬の浜にお着きになった姫はしばらくその地に滞在されていた□いよいよ開聞の鳥居ケ原に新築される仮宮殿にお帰りになるため、牟瀬の浜から舟で開聞岳をまわられて脇浦の入江にお着きになったという。以来この入江を皇后来(こごら)という。     鹿児島県

と、あります。   写真は開聞岳の西の裾野の皇后来港         

 ここからは古田史学の会古賀達也事務局長の「最後の九州王朝」“鹿児島県「大宮姫伝説」の分析”(一九八八)に限りなく重なってくるのですが、まず、天智天皇は置くとして、「志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り」は気になります。どう考えても志賀の都とは九州王朝の都の博多湾岸に思えるではありませんか。
 この古賀論文についてのコメントは別稿としますが、一点だけ書いておきます。頴娃町に限らず開聞岳付近には非常に多くの「別府」地名があります。ただ、現地では「ビュウ」(佐賀の別府地名はベフ)と呼ばれているのです。
 もちろん、別府地名は全国に分布しており、アイヌ語起源(ナイとともに川を意味する)説もありますが、一般的に九州西岸では“O”音が“U”音に入れ替わる傾向が顕著ですから、例えば「オオゴト」は「ウーゴト」と発音されるのです。とすれば「ビュウ」の本来の発音は「ビョウ」であるわけで、いわゆる郡評論争で著名な九州王朝の評督府の評の可能性を否定できないのです。私も現地で「ビョウ」と呼ばれていることは知っていましたが、古賀氏はこれを十年も前から「評」と関係付けておられたのです。この独創性と感性については驚くばかりです。このため私も多少の新しい仮説を提出しておきたいと思います。
 仮に大宮姫が九州王朝のラスト・プリンセスとして、大和朝廷の影響がなお及んでいない薩摩や大隅に最後の抵抗拠点(亡命地)を求めたとも考えられます。この薩摩半島先端への亡命ルートを考えると、それが宇佐神宮の沖を通る九州東岸が選択されるとは考えられず、西回りが当然のコースになるはずなのです。実はこれを裏付けるものがあるのです。
 それは志賀の都=博多湾沿岸から薩摩への第一の中継地点ともいうべき佐世保市に大宮姫を祀る神社があるのです。そして、さらに一歩踏み込めば、「伊勢を経て」についても、古田史学の会水野代表による「阿漕的仮説」(二〇〇六)で展開された元伊勢神社球磨川河口付近説にも繋がることになってくるのです。これについても詳報は別稿とします。今後とも天子宮、大宮姫伝説からは目が離せません。

糸島にも伊勢地名がありますね!

なお、大宮姫伝説は鹿児島県下にかなり色濃く分布しており、川辺町からも近い、吹上浜の久多島神社などにも認められ、吹上浜が志賀の都からの航路上でもあることからかなりの具体性が感じられます。

これについても、私が古田史学の会の会報96号に書いていますので紹介します。


天子神社のある吹上町永吉を流れる永吉川の河口に久多島神社、さらに旧加世田市万世(バンセイ)の八幡神社の付近にも久太島(クタシマ)神社があります。表記は異なるものの同じ神社でしょう。この他にも永吉の久多島神社の北にある小さな池の辺にももう一つの久多島神社があるようです(これについては未確認)。神社の名称は吹上浜の沖合にある島と言うよりも岩塊の独立礁ですが、単に岩礁を祀ったものではないようです。 再び前述の古老にお尋ねすると、天智天皇の妃の話が飛び出してきました。三年毎の決められた日に田中という家が久多島神社の宮司と共に船に乗りこの島に参っているとのことで、古老や大汝牟遅神社宮司のお話では、妃が都から帰される途中で生んだ子が亡くなり、この島に葬られたのではないか・・・・とのことでした。


その後、地元郷土史家のご紹介を得て、この祭礼を行っておられた田中家をご訪問しお話をお聴きしましたが、既に家勢が衰え、十年ほど前から辞めているとお聴きしました。

今のところこの田中家も筑紫(筑後)物部氏の末裔だったのではないかと考えています。

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南九州市頴娃町の釜蓋大明神の縁起


「釜蓋」地名については久留米地名研究会のHPに「釜蓋」として掲載しています。


揖宿神社

鎮座地 鹿児島県指宿市東方733番地  

御祭神 天智天皇

社記によれば、天智天皇が薩摩地方御臨幸の折り、当地の大杜に御滞興あらされた由緒の地として、慶雲3年酉午(西暦706年)210日、賀茂縣主堀内氏、指宿氏の遠祖が勅を奉じて、天皇の神霊、遺器を奉斎して葛城宮がご創建されましたが、168年後の貞観16年甲午(西暦874年)7月、長主山(現在の開聞岳)の大噴火があり、開聞九杜大明神(現在の枚聞神社)の葛城宮にご避難されたいとのご神託により同年11月遷宮され当杜を[開聞新宮九杜大明神]と称され、爾来指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され、明治維新に際し「揖宿神社」と改称され現在に至っております。特に、薩摩藩代々藩主の尊崇殊の外篤く、32度に及ぶ社殿の改修等全て藩費をもって施行されております。『揖宿神社』伝説上では、天智天皇は最愛の大宮姫と共に指宿で天寿を全うされた。ここは御所があった場所と伝えられる。


枚聞神社

鎮座地 鹿児島県揖宿郡開聞町十町1366

御祭神 大日霊貴女ほか八柱神(天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命)

開聞岳麓の岩屋に仙人が行をしていたら1頭の鹿が現われ、法水を舐めたところ懐妊分娩。大宮姫と言われ、麗質世に聞こえ、2歳で上京藤原鎌足に養育され、13歳で宮中に召され天智天皇の后となる。ほかの女后などに嫉まれ、伊勢の阿野津より船で山川牟瀬浜に上陸。其の後脇浦に再上陸。天皇は姫を慕って薩摩に下向され、開聞の姫の所で余生を送られ、79歳で崩御されたと。『開聞故事縁起』

姫が生まれるとき、瑞祥が現れたので「瑞照姫」とも呼ばれる。鹿の口から生まれたためか、足が鹿のように二股に分かれていた。姫は足袋を履いて隠していたが、意地の悪い女官によって晒され、それを恥じた姫は故郷に帰ってしまう。意地悪をするのが大友皇子、慰めるのが大海人皇子とする場合もある。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:23| Comment(0) | 日記
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