太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年06月21日

347 年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の謎の古社”

347 年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の謎の古社”

20161220

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


福岡県福津市と宗像市との境界領域に近い海岸部の一角に年毛神社という古社があります。

 神社を熱心に見て回られている方でも見落とすような海岸性樹木の生い茂る林を抜けると手入れの行き届いた一社があります。

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鎮座地が福津市勝浦であることから、海人族でも宗像族ではなく安曇族の領域にあった一社である事が分かります。

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「福岡県神社誌」上巻153


この年毛(トシモ)と言うのは小字地名のようですが、祭神については由緒書きもありません。

「福岡県神社誌」によれば、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神、鹽津智翁とあります。

一方、「年毛神社縁起神」によると、 志賀大明神、底津少童命、中津少童命、表津少童命、 住吉大明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、塩竈大明神(猿田彦神)とあります。

「福岡県神社誌」はお読み頂くとして、地元の郷土史会の文章が平易で平明な文体ですのでそちらをお読み頂きましょう。


由緒

無題.png神功皇后の三韓を征勝した時、東の岳(名児山)に登り、その山を名づけて加都羅岳といい、里を勝浦、島を勝島、この一帯を勝浦潟という。この時、皇后は志賀、住吉の大神をここに祀った。徳川の中期に、勝浦の入江が遠浅なので塩田を開き塩の神として塩竈大明神を合わせ祀る。志賀大明神は漁獲の業を守護する神。住吉大明神は船舶を守護する船魂の神。

(年毛神社縁起)

文献 【筑前國續風土記付録】勝浦村

年守大明神 村の乾八町トシモ松原の海邊松林の中に在。祭る所底津少童命、中津少童命、表津少童命3座也。鎮座の年歴伝ふる事なし。本編には年守とあり。今は年毛と称せり。

  【筑前國續風土記拾遺】年毛社

西といふ人家の海邊松林の中に在。年毛松原といふ。村浦5ヶ所(喜多、東、西、松原口、勝浦浜)の産神也。底津少童命、中津少童命、表津少童命なり。此社は宗像七十五社の一也。同末社に年毛大明神、正月朔日神事、77日神事としるせり。今は42929日祭あり。當所巫女弐人有りて奉祀する。

  【太宰官内志】年毛社(慶安祭祀次第記)

* 年毛神社のシオガマ大明神祭神が猿田彦になっていますが,塩土老翁 (シオツチ)では・・・ ?


「年毛神社のシオガマ大明神祭神が猿田彦になっていますが,塩土老翁 (シオツチ)では・・・ ?」と書かれているのはその通りです。

そして、その実体は博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの親神)なのです。

ここで注目したいのは、「徳川の中期に、勝浦の入江が遠浅なので塩田を開き塩の神として塩竈大明神を合わせ祀る」の部分です。

 以前、太宰府地名研究会のトレッキングにおいて同社を訪問した際に、偶然同社の女性宮司とお会いしており、その際に、“この入江は非常に大きくきれいな砂浜が広がっており、潮が満ちてくると浅い海が広がり自然に塩が採れるような所でした。また、真水も神社の一角から湧いており、真水と塩が得られる貴重な場所だったのです…”と言われていたのです。

 実は、これと塩土老翁=大幡主(関連神猿田彦)とが重なっており、塩筒翁とか塩土老翁と表記されるものに、素焼きの陶製製塩土器が関係していることから、江戸時代の入浜式製塩とか流下式製塩とか言った物に先行する古代製塩の痕跡を感じてしまうのです。

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「製塩土器」を画像で検索すれば多くの物が出てきます。

火で煮沸すると、運べる(交換価値のある実質的な商品)容器付の塩ができるのですが、これこそが塩土とか塩筒(九州の神社では塩筒と表記する例が多い)で、塩土老翁が神代に於いても関係していたのではないかと考えているところです。

さて、この神社には貝に砂を入れて神社に持ち込む風習が残されているようです。

これについてはこれまでにも何度か遭遇しているのですが、どうも塩土老翁(大幡主)に関係しているのではないのかといった感触を持っています。

一応、貝持ち神事と呼んでいますが、はっきりしたものとしては、鹿児島県吹上浜の吹上温泉近くの大汝牟遅(オオナムチ)神社(鹿児島県日置市吹上町中原)で見ています。

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次をお読みになるとお分かりになると思いますが、このウムギヒメ、キサガイヒメの話こそが、大国主命をねたんだ「古事記」では兄がとされていますが、大国主命へのテロに絡むものなのです。


大国主の神話で、たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んだところへ、神産巣日之命の命令によって両神が派遣され、キサガイヒメが「刮(きさ)げ集め」、ウムギヒメが「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとある。

ここの記述については、粉末にした赤貝の殻を母乳に見立てた蛤の白い汁で溶き、火傷の治療に使ったという民間療法を表すとする説があるが、一方で、蛤の汁が母乳に見立てられた点を重視し、これは母乳の持つ生命力の促進・回復の効能を期待して蘇生に利用したもので、神名の「ウム」から「母(おも)」が喚起され、そこから「母乳による蘇生」という1つの神話素が形成されたものと指摘する説もある。なお、蛤は『和名抄』に「海蛤ウムキノカヒ」とあり、古くから薬剤として利用されていた。

一方、赤貝は『和名抄』に「蚶キサ」とあり、「状(かたち)蛤ノ如ク円クシテ厚ク、外理(すじ)有リ縦横ナリ」とあるので、貝殻の表面に付いた「刻(きざ)」(年輪)から名付けられたものであり、「刮(きさ)げ集め」の部分は赤貝の殻を削ってその粉を集めたと解釈できるが(「刮キサぐ」は「削る」意味で「刮コソぐ」とも読める)、赤貝の殻がどのような効能を持つものとされていたかは不明である。キサガイヒメが「きさげ集め」の語を喚起しているのは確かであるものの、その点以外でこの説話及びウムギヒメとどう関連するのかは語られないため、キサガイヒメの「キサ」に「父」の古語である「カソ」の音を響かせ、ウムギヒメの「ウム=母(おも)」に対するものとして登場させたとする説もある。


ウィキペディア(20161220 2236による

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同社の解説文


このウムガイヒメ、キサガイヒメも宗像三女神の内の大国主命のお妃となられたお二人なのですが、それについては、「ひぼろぎ逍遥」186 刺国若比売 “大国主の母”は大幡主の妹の埴安姫=草野姫か?をお読み下さい。

無題.pngでは、埴安姫が神皇産霊に頼んで介護のために送り込まれた蛤貝比売(ウムガヒヒメ)と𧏛貝比売(キサガヒヒメ)とは誰だったのでしょうか?

百嶋神代系譜では、大幡主の子である白族の豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘である許氏の萬幡豊秋ツ姫の間に生まれた田心姫(多紀理毘売)=豊玉姫が蛤貝比売として、同じく大幡主の子である白族の豊玉彦の姉のアカルヒメとスサノウとの(妃であったが半島から日本へ移動したのは良く知られる)娘である瀛氏の市杵島姫が𧏛貝比売として各々大国主のお妃となっておられるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:00| Comment(0) | 日記
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