301 日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも…
20160905
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
ひぼろぎ逍遥(跡宮)287 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の大幡主の子であった”において、宮崎県の日南海岸の野島神社の祭神から塩槌(土)翁が浦島太郎ならば博多の櫛田神社の大幡主であり、どうやら猿田彦も大幡主の縁故者となり、はっきり言えば息子の一人であったのではないかとまで踏み込みました。
その延長上に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)287 大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”において肥後の猿田彦の祭祀圏も確認したのですが、専門サイト23・「熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社地名表」の天草一帯から海岸部を見ていると、幾つかの塩○神社があることに気付きました。

塩浜、塩竃、塩釜、塩屋といった「製塩」絡みの社名(地名)がかなりの頻度で認められるのです。
塩槌、塩釜、塩臼(西欧でも塩=サラリーを吹き出す宝物)…といったものは塩が高価な交易品であった時代、製塩、そのための塩田、その内陸部への運搬手段としての船団(交易船)を組織する通商民の長といった者が祭神として頭に過り浮かんで来ます。
以下もそういったものの一例でしょう。
そもそも、塩土老翁が塩筒老翁とも書かれることについて、液状塩(すなわち鹹水)が筒(竹筒か)に容れられて運搬・消費されていた時代を反映して、塩に関係ある技法をもつ人物ではないかと考える広山堯道(広山堯道「記・紀・風土記の塩」、『日本塩業の研究』第23集、平成6年9月)の見解は示唆深い。ただ、古代のわが国では北陸と東北で、土器製塩に伴う円筒形土製支脚も使用されており、筒状の土器を利用して製塩を行ったことも関係があるのかもしれない。
「塩の神様とその源流」宝賀 寿男 より
まさしく、日南海岸の野島神社は塩筒大神としており、海人族の長たる大幡主その人であることを彷彿とさせています。
それらに猿田彦大神=白髭大明神が祀られていることは、大幡主の配下で活動していた親子としての猿田彦(山幸彦)が九州東岸の辺境ばかりではなく九州西岸でも確認できた事になるのでした。
上記の五社も、「熊本県神社誌」で確認しましたが、それはあくまでも主祭神レベルが書き留められているだけの話であり、今後、実際に現地を踏み確認する作業が必要になるでしょう。
一、二社 は既に踏んでいますが、このテーマに関連付けては見ていないため、再度、改めて訪問し五社詣りをしようと考えています。ただ、概して猿田彦神社は小さな祠程度のものが多く、実際には成果は期待できない可能性があることは覚悟の上になります。
ここで考えるのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)205 宮地嶽神社と安曇磯羅 M “天草下島宮地岳町の宮地嶽神社は消されていた”で触れた事が頭に浮かんで来ます。それは、……以下。
概して天草一帯では十五神社、十五社…といったものを数多く見掛けますが、阿蘇の十二、十三神が覆い被さっているものと理解しており、その基層にあるものの方が重要な神社と理解してきました。
このため十五神社系はあまり関心を向けていなかったのですが、今回、この神社が元は宮地嶽神社だったのではないかと言う事に気付いたのでした。
天草には十五柱神社といって、十五柱の御祭神を祀る神社が全天草神社の三分の一に近い八十五社もある。河浦町には法人甲乙二十七社中十五柱神社が十六社もあり、町内神社の三分の二近くに達する。
十五社の御祭神はおおまかに云って六種にわけられる。…
「熊本県神社誌」(上米良純臣編著)
同著276pでは“(附)天草に多い十五柱神社”として6タイプに分け分析している。
勿論、これはこの宮地岳町だけの現象かも知れませんが、多くの海士族が暮らす天草諸島の多くの神社が全て阿蘇の神々を祀っていると言う事自体が一般的には違和感があるのは否定できないもので、このテーマは今後の課題とします。
そもそも十五とは龍王の入れ替わりではないかとの考え方が民俗学者の柳田国男から提起されており、R音とD音の入れ替わり現象を知る者としては、今後とも興味深いテーマではあるのです。
つまり龍王(リュウオウ)がジュウオウと呼び習わされ、いつしか十五社とされたという可能姓です。
ともあれ、これまで放置して来た宮地岳町の十五社を踏みました。
… 中略 …
驚く事に、宮地嶽神社の痕跡は宮地岳神社という呼称にだけ残されていたのです。
「熊本県神社誌」のFタイプに該当しそうですが、御覧の通り、宮地嶽神社の祭神(百嶋神社考古学では否定しますが、現在の公式の祭神は神功皇后とその臣下)は全く消されているのでした。
左端のカナコリヒコは第二代綏靖天皇、その右の速瓶玉は大山クイ=日吉神社の御祭神ですね…。
宮地岳神社の名といい宮地岳町という地名といいこの地にはよほど宮地嶽神社を奉祭する人々と支配力が存在していたことが確認できたのでした。と、ここで話は途切れてしまいそうでしたが、そうではなかったのです。
ここで、神宮寺とも見える道路を挟んだ浄土宗量性寺の墓地の奥を眺めると、真新しい立派な神社が目に入ってきたのでした。どうやらこの寺は、宮地岳町の有力者を檀家に持つ旦那寺だったようです。
その話は後に廻すとして、直ぐにその真新しい神社を見に行きました。
たまたま通りがかった方にお尋ねすると、“この墓地は元の庄屋さんの一族のNさんが最近造られたもの”
とのことで、ただならぬ気迫を感じたのですが、どうやら隠された宮地嶽神社を代々一族の屋敷神として奉祭し守り通してこられた事が良く分かったのです。最早疑う余地はありません。
時代の要請に従いこれまで祀り崇めて来た神を隠し、代わりに宇佐の八幡と阿蘇神とを受け容れ従ったものの、本来の神を捨て去ることはできずに秘かに守って来た神を、時代を判断しようやく陽のあたる場所に戻したという誇りと達成感が感じられたのです。
次の写真にはその一族の代々の祖先を祀る石塔が戦国武将並みに居並んでいました。
この一族は単に戦国時代にとどまらず、南北朝争乱期、源平争乱期以前まで遡る、九州王朝の時代まで遡ることのできる名族であろうことは、まず、間違いないでしょう。
まだ詳しく調べてはいませんがどのように見てもこの累代の墓は古代まで遡る名族ですね
墓所(ここには納骨堂が置かれています)の正面には若宮神社が置かれていました
そう考えたのは若宮神社が置かれている事を知ったからでした。
百嶋神社考古学では、この祭神を久留米高良大社(実は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀る日本最高格式社)の摂社であり、その正妃である神功皇后(「高良玉垂宮神秘書」)との間に産まれた長男シレカシ命こそ後の藤原により第14代とされた仁徳天皇その人であることを知るからです。
この若宮神社を守る氏族は高良大社のしかも高良玉垂命に繋がる氏族(臣下を含む)であり、ただならぬ歴史を抱えた一族(予断は避けるべきですが、奉祭する神々から判断すると恐らく最高位の物部)であろうことは疑いようがないのです。
実は、この墓所の下には臣下と考えられる一族の墓地も置かれています。
その石塔や納骨堂の家紋を見るともっと興味深い問題が横たわっていますが、一族の方からの聞き取りを行い判断したいと考えています。
しかも、N家には古文書も数多く残されているようで、まだまだ、謎解きを出来る余地が残されているようです。
百嶋神社考古学では、今の高良大社からは神功皇后が消され、宮地嶽神社からは高良玉垂命であるワカヤマトネコヒコの名が消されているとします。
消されるには消されるだけの理由があるからであり、この天草下島の中央部から宮地嶽神社が消された事にはよほどの重要な古代の政治情勢が垣間見えた思いがしています。
墓所にも、失われた肥後国天草郡宮地嶽村若宮神社縁起がしっかりとした彫り込みで掲げられています。
これらを通説派の学者がどのようにでも解読するでしょうが、九州王朝論者の手により解読作業を進めたいと思ってやみません。
と、このように書いてはいたのですが、十五社、十五神社の類は、やはり、柳田の説に頼らずとも龍王の可能性が高く、山幸彦が釣針を失い塩土翁の勧めで向かった大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の住むところが龍宮城であり、豊玉姫が出迎える海神の館だったと考えるべきなのです。
してみると、宮地嶽神社というよりも、阿蘇の十五神が覆い被さって来る以前のこの一帯には、大幡主、その嫡子である豊玉彦(龍王)、そして、大幡主の側室の子であったはずの猿田彦=山幸彦が祀られていても一向におかしくはなかったのです。
そして、司馬遼太郎をして“肥後と言うよりは肥前の香りのする土地”として天草一帯の開放性もそれに起因していたのではないかと言う考えがストンと腑に落ちるのでした。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
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