太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年02月28日

300 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

300 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

20160903

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで「大宮神社と猿田彦大神」として多くを書いてきました。

猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=経津主…と多くの名をお持ちの神代史(実は九州を中心に展開された本当の古代史なのですが)上のスーパー・スターの痕跡が凝集されているのが、その総本山とも言うべき熊本県山鹿市の大宮神社であることが見えて来たようです。

まず、全てとは言わないまでも、海幸山幸神話(実は若き阿蘇高森の草部吉見ことヒコヤイミミと熊本から山鹿を中心に北に展開した若き猿田彦ことニギハヤヒの確執)の舞台が熊本から福岡の一帯だったようなのです。

そして、それに絡んで塩椎神、塩土翁…という人物が登場し、釣針を亡くし途方に暮れる山幸に龍王のもとに行くことを勧める話になるのですが、その人物こそ博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、受け入れた人物=龍王が塩土翁の正室の息子(山幸の腹違いの兄)である豊玉彦(ヤタガラス)であり、そのヤタガラスの娘こそ豊玉姫=宗像大社の田心(タゴリ)姫だったこと、そして、そのシオツチこと塩土翁も山鹿の大宮神社の隠された主神である地主神(埴安彦外2神)として祀られている事、さらに踏み込めば、残りの2神も金山彦と櫛稲田姫であるか、金山彦とそのお妃である埴安姫(シオツチの妹)である可能性が高く、スサノウのお妃となられた櫛稲田姫と本物の神武天皇の最初のお妃となられたアイラツヒメ(相良観音)もこの山鹿周辺で産まれた事、その近くにある伝ウガヤフキアエズ陵も山幸彦=ニギハヤヒと豊玉姫との間に産れたのがウガヤフキアエズであったとしたら(記紀はそれを隠していますが、百嶋神代系譜はそれを看破しています)、相良観音を望む場所に残されたこの非公認の陵墓もそれなりの現実味を帯びてくるのです(ひぼろぎ逍遥跡宮128130参照)。

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山鹿市菊鹿町相良の伝ウガヤフキアエズ陵 と その教育委員会による掲示板


 そして、その向こうには松尾神社が在り、呉の太伯王〜呉王夫差の末裔とする「松野連系図」との関係が取りざたされる松野鶴平、頼三、頼久…の一族の生家まであるのです。

 つまり山鹿とはスサノウとそのお妃となられた櫛稲田姫の生誕地であり、初期の九州王朝を支えたであろう金山彦とそのお妃としての大幡主のお妃、本物の神武天皇のお妃であったアイラツヒメ(父は金山彦、母は大山祗の妹であるオチの姫)のおられた土地であることを併せ考えれば、紛れもなくこの一帯こそが日本神代史の最重要の舞台だった事が見えて来るのです。

 ここで考えるのですが、山鹿一帯を中心に肥後全域に、何故、猿田彦の石塔がこれほどまでの集積を見せているかという問題です。

山幸彦は身分が低い(百嶋先生の言)にも関わらず、最期は海幸彦を押し退け伊勢の外宮様(豊受大神=伏見稲荷)の夫にまで抜擢されているのです。

 その理由は、博多の櫛田神社の大幡主の血が流れていた(側室の子)からであろうと思われるのです。

 このことは、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 287 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の大幡主の子であった”で述べましたが、恐らくこの事が関係しており、金山彦、大幡主、大山祗亡き後の実権が、この山幸彦一党(大国主、ヤタガラスを含む)に任されたからであり、最低でも阿蘇の神々(阿蘇12神)が菊池一族によって大宮神社に持ち込まれるまでは、大国主(この神様も大幡主の配下で活動していたから亀甲紋章を使い「主」という称号を使用しているのです)、スサノウ(博多の櫛田神社の三神体制でもスサノウが鎮座していますね、それは櫛稲田姫の生地だからです)、山幸彦、ヤタガラス(豊国主)の支配体制が貫徹し、それらを中心に祀られていたはずなのです。

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ここまで見てくると、贈)景行天皇=贈)孝安天皇=玉名疋野神社の主神も、百嶋最終神代系譜によれば豊受大神と海幸彦との間に産れた御年神の子が贈)景行であることからして、玉名から出てきて山鹿に足跡を残しただけの話でしかなく、早くても阿蘇の神が持ち込まれた西暦1050年以降か、遅ければ明治期に縣社昇格に絡んで持ち込まれただけの様に見えるのです。

恐らく、百嶋由一郎先生(菊池至誠会福岡支部長)も上米良純臣宮司(菊池至誠会会長)もこの辺りの事情は全てご存じだったものと思います。

 ただ、明治以降昭和の敗戦以降の政治情勢の変化を見据えながら表に上げないままあの世に行っておしまいになったのだと思わざるを得ません。

 それは、多くの神社、地域への影響が大き過ぎるため公開できない話として心に留めながら、何時しかこの事を知っている賢い宮司、教育関係者の一切が亡くなられ、贈)景行天皇を本物の天皇であり、山鹿の守護神の如く思い込まされ強弁する間の抜けた無知な関係者が専横を振るう時代になってしまったのだと思うのです。

 従って、このような、良く言えば日本版ダビンチ・コードのような話、悪く言えば九州王朝論者という怪しげな連中の中でも狂人の類の戯言といったものでしか継承できなくなってしまったのです。

つまり、秘密とは本当の一部だけの極秘にしてしまうと、日本海海戦の東郷平八郎が本当にT字戦法で勝利したといった対外的デマが本当になってしまったのと同様に、隠し過ぎると擬装が真実とされてしまうことになるのです。そして、哀れなのは民衆であり、自らとは全く縁も所縁もない他所の神様を崇める事に成ってしまったのです。ヨヘホ、ヨヘホ…!悲しきは山鹿の民だけではないかと思うものです。

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和水町で発見された納音九州年号対照表


文献史学派として九州王朝論の立場から4著を残された平野氏、同じく九州王朝論の立場から半島から中国全域、中近東までフィールド・ワークを続けられた百嶋氏、九州王朝実在の物証としての納音九州年号対照表、これほどのものが残されていても、学会通説、教育員会、学芸員は一片たりとも見向きもしてこなかったのです。

このような事実を知っておきながら、町興し宜しく“行政は無視できない、行政とのパイプは残しておかなければならない”といった姿勢の延長上に、真実の探求とか九州王朝の探究も…と言ったさもしい思考をする向きには断じて古代の探究ができるはずがないのです。

古代史とか九州王朝論をあたかもファッションと考えるような方々には古代への扉は開かれる事はないのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:57| Comment(0) | 日記
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