太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年02月16日

295 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

295 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社


一般的に、出雲といえば出雲大社と大国主命しか頭に浮かびませんが、写真は出雲の二ノ宮とされる佐田神社です(出雲一ノ宮は出雲大社と熊野大社ですが)。

新暦の11月の深夜に行われる神等去出(カラサデ)神事で知られる古社です。

この佐田神社の祭神こそ大山咋(オオヤマクイ)神であり、アマノフスミノミコト、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、日枝山王権現から比叡山にも関係があるのですが、一般には猿田彦と混同され、酷いものにあっては佐田大神とは猿田彦以外ではありえない…といった強弁がまかり通っているようです。

逆に言えば、九州外では猿田彦を佐田大神とする向きさえあるようで、それは全くの誤りであり、このことは神社庁も知り尽くしているはずなのです。

この点、九州では猿田彦と佐田大神は分離され別神であるとの分離(認識?)だけは確立しているとも言えそうです。

ここで、肝心の佐田神社の公式ホーム・ページを見ると、例によって祭神を 佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古大神(さるたひこおおかみ) としているのはもとより、追従するいくつかのサイトも知ってか知らずか(多分無知なのでしょうが)猿田彦とするものが目立ちます。

「出雲国神仏霊場」というサイトにおいても祭神を 主神佐太大神(さだおおかみ)=猿田彦(さるたひこ)大神 としています。

 ふだん採用しないウィキペディアを見ると、この部分については、神社庁の統制が効かないのためか、


佐太大神[編集]

正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。とし、

明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。

現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。と、非常に正しいことを書いています。

これでは、ウィキペディアを馬鹿にする学会、識者といえども少しは見習うべきかもしれません。

ここで、皆さんに是非読んでいただきたいサイトがあります。

佐太神社(さだ)http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/sada.htmです。

詳しくは、直接、全文を読まれることをお勧めしますが、最低でも、明治以来の神社庁による露骨な干渉が多少はお分かりになるでしょう。佐田大神と猿田彦が別神であったことを示す貴重な証言と言えます。


佐太神社(さだ)

岸崎左久次の『出雲風土記紗』には、この社を三社とした上で、一社は熊野大神と大穴持命、一社は佐田大神、一社は瓊々杵尊・伊弉冉尊・天照大神の三神であると説明している。

 永享十一年(1439)三月十八日の四郎三郎他十一名の 「起請文」(東福寺文書)に 「特者当州杵築太明神・佐陀三社太明神」 の語が見える、少なくとも南北朝期にはすでにこの三殿並立の形ができていた。 天正六年(1578)の 「佐陀大明神御本体ヲ智事」 云々と題する当社幣主祝宮川清秀の手控には、「ここは当国の鬼門故に三つの社を建て並べ、八百萬の神々を勧請するが、主神は皇孫瓊々杵尊であり、かつ伊弉諾・伊弉再の二神を併せ祀る」 というふうに述べている。


 次いで江戸時代の初めに成ったと思われる、かの神能 「大社(おおやしろ)」を見ると、そのクセの段に、「三つの社を建て並べ、伊弉諾・伊弉冉は中の社と思召、左の社には天照大神・月の神、右の社には水蛭子・素盞嗚これなり」 とあって、ここに三殿の祭神が、より具体的に説かれ、しかし主神は諾再二尊ということになってくる。


 寛文年間(1661〜73)の 「佐陀大明神縁起」 には 「中正殿者伊弉諾・伊弉冉二尊勧請社也。 北之社者穂仁似々貴尊也。 亦天照大神・天赤女勧請社也。 南之社者月神・蛭子・索盞嗚尊也」 とあり、天和四年(1684)孟春の 「秋鹿郡佐田大社之記」 には 「正殿、速玉之男・事解男、北殿、天照大神・皇孫命、南殿、五男外ニ一座伝授」 とある。 ここに速玉之男命・事解男命・五男神というものが出てくるのである。佐太神社 三社


 享保二年(1717)の『雲陽誌』の記述となってくると、正殿は 「伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男命・秘説、都て五座の神をまつる」、北殿は 「天照大神・月弓尊、都て二座の神をまつる」、南殿は 「素盞嗚尊・秘説四座の神をまつる」 というのであって、これでおおむね幕末まで一貫する。


 明治維新を迎えると、神祗官の指示を仰ぐ松江藩神祠県から、この祭神について強硬な示達を受けることとなった。 正殿の秘説一座の神名を顕示し、かつこれを『古史伝』の説に従って 「猿田彦命」 とせよというのである。 これは当社にとって根本をゆるがす大問題なので、正神主以下、祖法を楯に挙って反対した。 しかし藩は聞かず、明治三年六月に至り、これを 「佐太御子神」 として顕示することに結着した。 しかしそれでもなお納まらず、同十二年に至り、主神を 「佐太大神」 とし、諾再二尊を配祀神であるということに改めたが、さらに十八年、この 「佐太大神」 を 「佐太御子大神」 と書替えるに至った。


 無題.png 現在では、正殿は佐太御子大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男之命、北殿は天照大神・瓊々杵尊、南殿は素盞嗚尊・秘説四座、ということになっている。 当社では、明治維新時の松江藩神祠県との紛争の結果として、いわば偶然にも古代の佐太大神の御名をふたたび顕示することとなったのであるが、それにしても古代末ないし中世以来と思しき、伊弉諾・伊弉冉・事解男・速正之男、あるいは天照大神・瓊々杵尊・素戔嗚尊といった神名は、これを依然として顕示することとなっている。 またそもそも三殿並立という形はこれをあくまでも守っているのであるが、これが古代以来のものでなかろうことは、叙上の次第によって明白であろう。


 このサイトは五年ほど前から気付いていましたが、いつ横槍が入り消されるか分かりません(既に検閲が存在していた戦前と同様の状況が目前です)。非常に貴重な証言と言えるでしょう。

佐田神社も神社庁の魔手=神社の継承権を認めないと言う手段により、捻じ曲げられてしまったのでしょう。

 彼らは、自らの言いなりになる神社を増殖し、さもしくも文字通り天下りして行くことになるのです。

 この傾向は現在も続いており、戦前の軍国主義を呼び込んだ国体明徴運動は、対米戦争完敗(ボロ負け)と言う愚かな結末を迎えたのです(ざまあない)。

 今度は如何なる大破産と国民の不幸を齎すことになるのでしょうか?実に楽しみな限りです。

佐田大神は猿田彦に非ず


では、なぜこのようなことが平然とまかり通るのでしょうか?

山幸彦とその敵対勢力であった海幸彦の流れの何時しか融合(手打ち)した神祇勢力=中臣(藤原)神道こそが、国体を救うと称し、国体に巣食っているからであると聴き及んでいます。


 さて、皆さんはこの猿田彦大神が何者かお分かりでしょうか?実は海幸山幸神話の主人公、山幸彦なのです。神社庁関係者も知的な人は恐らくご存知でしょう。決してそうだとは言わないでしょうが。

 このことについても、何時か書きたいと思っています。

猿田彦は山幸彦


繰り返しますが、佐田大神は大山咋(オオヤマクイ)神であり、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、そして、日枝山王権現に繋がるのです。それが明確に分離されている九州以外は、ほぼ、塗り潰されてしまったようです。

既に、考古学、古代史、報道、選挙…と、すべての分野で嘘がまかり通るようになっていますので、これぐらい何だ!と思われるでしょうが、所詮そのような国なのです。

 ここで、佐田大神が初めに居た場所をご紹介しようと思います。

 既に、この神社の神官も祭神が大山咋命であることはご存じではなくなっておられます。

 ただ、この地(宇佐市安心院佐田)から福岡県朝倉市佐田に、さらに、佐賀県の小城市(松尾酒造も関係あり)に移動した後、太宰府近辺(筑前山家)に多くの伝承を残していると某神社考古学者から聴き及んでおります。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:19| Comment(0) | 日記
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