太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年01月19日

286 大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経彦(神理教教団)と菊鹿町「吾平」のウガヤフキアエズ陵”

286 大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経彦(神理教教団)と菊鹿町「吾平」のウガヤフキアエズ陵”

20160722

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再掲載“神武が筑前から筑豊に東征する前はどこにいたのか?” 福永晋三仮説前史


本稿は、既に久留米地名研究会のHPに掲載しているものですが、徐々に重要度が増してきており、ブログとしても読んで頂きたいと考え、再編集の上に公開する事にしたものです。

“徐々に重要度が増してきており“としたのは、畿内への東征が実は第10代とされる崇神天皇の事であり、神武は東日本まで巡行しているとしても、東征を行ったのはあくまでも九州内だったのではないかという事が徐々に分かって来たからです。      ひぼろぎ逍遥(跡宮)128 20150613 再掲

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吾平山


既に故人になりますが、熊本に平野雅曠という九州王朝論に立った孤高の古代史研究者がおられました。

 残念ながらお会いするチャンスには恵まれませんでしたが、九州王朝論に基づく四著他を残されています。

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この中の“倭国王(くまそ)のふるさと“「火の国山門(やまと)」には、幕末から明治に掛けて活動した神道家(現在も北九州に本拠地を置く教派紳道系の神理教の創始者)佐野経彦氏が安政七年(一八六〇)に熊本で書いたものを平野さんが現代語訳したものが掲載されています。      

『吾平山御陵考』(現代語訳)という題で全文添付)。          

 この要旨は、神武天皇の父とされるウガヤフキアエズの陵は明治七年の明治天皇の裁下により、大隅の国肝属郡姶良郷上名村の鵜戸の窟とされたようです。ただ、当時から異説もあり、肥後国山鹿郡日向村説を紹介するとしていますが、その実、これが正しいとしているのです。

 詳細は、後段の本文を読まれるとして、ここでは、平野雅曠氏が書かれた、「九州王朝の周辺」に掲載された小論「ウガヤフキアエズノ尊の陵を尋ねて」を併せて紹介します。


  ウガヤフキアエズノ尊の陵を訪ねて


日本神話の「海幸(うみさち)・山幸」の物語は、どなたも御存じのことと思う。

海幸の釣針をなくした山幸、彦火火出見(ひこほほでみ)尊は、海神の宮に行き、三年後に針を得て故国に帰る。海神の娘、豊玉姫は、契りを結んだ山幸をたずねて来り、産屋の屋根も葺き終えぬ海辺で子供を生む。ウガヤフキアエズノ尊である。(以下、ウ尊と略記)

然るに豊玉姫は、山幸に産時の姿を見られたのを恥じて本国へ帰ってしまい、代わりに妹の玉依姫をやって、ウ尊の養育を頼むという物語である。

「盗まれた神話」の著者、古田武彦氏は、「山幸の故国は天孫降臨の地、筑前糸島郡のクシフル山(高祖山連山、三雲遺跡近傍)であり、ウ尊も筑前で育ち、而も、宮殿で生まれなかった彼は、天孫王朝としては傍系の、数奇な運命をもった人である」としている。

ウ尊は成人の後、叔母の玉依姫を妃として、五瀬命、狭野(さの)命(神武の幼名)など四人を生んだが、どこに住み、どんな活動をしたかは、記・紀にも一切見えない。子供の名から察すれば、五ヶ瀬(ごかのせ)川流域、佐野あたりであったかも知れない。ただ次のような死亡記事だけが日本書紀に出ている。

「久しくして彦波瀲鵜鸂草葺不合(ひこなぎさうがやふきあえず)尊西洲の宮に崩ず、 因りて日向の吾平(あいら)の山の上(ほとり)の陵に葬る。」(神代紀)

さて、私は、過ぐる年二月、熊本県鹿本郡菊鹿町に、里人がウ尊の陵と言い伝えて崇敬する、通称「陵(みささぎ)さん」を訪ねた。

菊鹿町は、昭和三十年四月一日、内田・六郷・城北の旧三村が合併して出来た町で、東西はそれぞれ、菊池市及び山鹿市に接し、北は筑肥山地によって、福岡県に隣する熊本県北の町であり、「陵さん」は当町相良(あいら)字日向(ひむき)という所にある。

併しここは、世界の珍種で天然記念物になっている「アイラトビカズラ」及び木彫刻坐像としては日本一の大きさを誇る相良(あいら)観音の在所として世上有名な所であるが、「陵さん」については、古代史に関心をもつ特殊な人以外には殆ど知られていないようである。・・・

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吾平山陵ともいい・・・鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祭る。同尊□地として鹿児島県に一つ?・・・宮崎県に五?・・・つ、・・・本県に一つ・・・七カ所があげられる・・・内国?が御陵と定めているのは・・・肝属郡・・・の鵜戸・・・の・・・いわやである・・・


相良観音(相良寺) カーナビ検索 熊本県山鹿市菊鹿町相良370  0968-48-9144

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:12| Comment(0) | 日記
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