太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年01月13日

285 大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経彦(神理教教団)と猿田彦大神”

285 大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経彦(神理教教団)と猿田彦大神”

20160722

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


大宮神社の西隣に木造の古びた建物があります。

この建物は神理教の山鹿教会の跡地で、今は市内某所に移転されているのです。

この神理教教会が何故この地にあったのかを考えてみたいと思います。

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本教(今後神理教をこう以下に記します)は、開教(明治13・西暦1880年)からもう、120年近く経っております。

また御教祖の家は、この地(福岡県北九州市小倉南区徳力)で何十代も神社をお守りしてきました。…

…神道は明治の初めに、布教をしない神社神道と、布教を行う教派神道に別れました。本教は、その教派神道の13派のうちの一つとなったのです。…

…神社神道は伊勢神宮を中心としますが、八幡神社や稲荷神社など、おまつりする神様により信仰の性格が違います。…

本教の御教祖、佐野(巫部)経彦命は、家に伝わった神道の教えと、日本に伝わった神道の教えである国学を併せ、大成されました。 この本来の教えを世界中の人に呼び覚まし、幸せと安心を得て頂こうとするのが「神理教」の熱い思いなのです。…

饒速日命は御教祖の祖先で、九代膽咋宿祢命(いくいすくねのみこと)の時に物部(もののべ)の姓となり、十六代兄奇宿祢命(えぐしすくねのみこと)の時に雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の難病平癒の功で巫部(かんなぎべ)の姓を戴きました。…

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神理教公式ホーム・ページより(雪の日の教団本部)


ご覧の通り、神理教とはニギハヤヒ〜ウマジマジを祀る物部氏の教団であり、その一族を中心として祀る同族教団なのです。

その筑豊から北九州を中心とするニギハヤヒ教団の支教会が、何故、山鹿にあるのか、しかも、その教会が大宮神社と隣接して存在するかを考えれば、この50基近い猿田彦の石塔群が存在している意味も見えて来るはずなのです。

現在考えている仮説はこうです。

元々、大宮神社(旧名大宮大明神)とは金山彦、埴安命(大幡主)、埴安姫or櫛稲田姫を主神として祀る神社であり、その周辺には埴安命(大幡主)配下の山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛を奉祭する強烈な物部氏の信仰圏が存在し、その延長上に旧神理教山鹿教会も大宮神社の敷地の一角を占めていた(元々同教団系の敷地だった?)。

だからこそ、猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ(実は大幡主の子なのですが、それについては別稿に…)の尋常ならぬ50基近い石塔群が置かれている。…

そう考えられるようになったのは、地主神こそが本来の大宮神社の主祭神で(あった)あり、それが「埴安命外二神」(「神社誌」)と書かれ、それが博多の櫛田神社の主神の大幡主であり、どうやら、その子が猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=経津主で、実は大幡主の子であるという事が分かってきたからです。

その話は後に譲るとして、この神理教というニギハヤヒ教団の設立者である佐野経彦氏が、吾平神社、相良観音、伝ウガヤフキアエズ陵がある菊鹿町周辺を調べに来ているのです(これについては「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)128130 「吾平」@ABを参照の事)。

それは、ニギハヤヒのルーツが山鹿に存在した事(本当のルーツは長崎県島原市の猛島神社…)を知っての探査旅行であり、通説派はとんでもないと言うでしょうが、実は、ウガヤフキアエズは、そのニギハヤヒと宗像大社の豊玉姫(タゴリミホ)の息子であるからなのです。

教団(佐野)は、ウガヤフキアエズがニギハヤヒの子である事を知っているからこそ菊鹿町の伝ウガヤフキアエズ陵を調べに来ているのです。

勿論、神武天皇の父というのは藤原による偽装ですが、通説でもヒコナギサタケウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)は、彦火火出見尊(山幸彦)と、海神の娘である豊玉姫の子としますね。

この点が理解できるのは、物部の権化とも言うべきニギハヤヒが山幸彦である事を知っているからなのです。


猿田彦が何者か?何故、山鹿にそして肥後全域に猿田彦の石塔が数えられないほど存在しているかがお分かりになったでしょう。草部吉見(海幸彦)と猿田彦(山幸彦)神話の舞台は肥後だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


以下は佐野経彦氏による「吾平山御陵考」(現代語訳)平野正(日+廣)です。

故)平野先生は肥後では珍しい孤高の九州王朝論者でした。保守の権化の如き肥後の地において良くぞ多くの九州王朝論に立つ著書を幾つも残されたと思うものです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:17| Comment(0) | 日記
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