太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年12月26日

280 海幸彦を主神として祀る神社 “宮崎県日南市北郷町の潮嶽神社初見”

280 海幸彦を主神として祀る神社 “宮崎県日南市北郷町の潮嶽神社初見”

20160717

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久


日南市油津に鎮座する吾平津姫神社にはもう四度も足を運んでいますが、同行の三人は初見のためかそれなりに喜んでおられたようです。

次に向かったのは旧北郷町の潮嶽神社でした。


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海幸彦=阿蘇高森の草部吉見神という定式で考えていると、日向の片隅にある神社などどうでも良いように思えるのですが、実際に海幸彦を主神として単独で祀る神社が存在する事は重要で、それだけでも一時期この一帯に居留した時代はあったのではないかと思わせるだけのものではあるのです。

 今回、この神社を訪問して最初に確認したいのはその部分で、通常、神社を見れば、境内に多くの摂社がある事はどなたもご存じだと思います。

 まず、時代と共に、支配者は絶えず変わります。それに連動し、中央、地方を問わず権力の交代に合わせて行政機関でもあった神社の祭神は、時に排除され、入れ替えられ、新たな神が覆い被さって来るものです。

しかし、列島の民族は、その恵まれた地形や風土から住み分けによって共存共栄ができたことから、入れ替えられた神々も、中国や朝鮮などのように、決して川に流したり土に埋めたりはせずに、境内のどこかには残され祀られると言う風土があります。

このため、皆さんたちが目にする境内社の神様は元の神様であり、普通は先祖神でもあることが多いのです。

そこで、この神社を見ると、そのような痕跡が全くないことから、海幸彦以外の祭祀が存在しなかった可能性が高く、現在、山幸彦と共に祀られているとしても、海幸彦の一時的居留、もしくは海幸彦を祀る直系の氏族が古来住み着いてきた土地ではないかと思うのです。

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興味を引いたのは参拝殿と神殿に覆いが掛けられていた事です。

鞘殿とまではいわないものの“せめて上からの雨だけでも“という思いやりとも実利的社殿の保護であり、鞘殿ならば筑後物部の風習でしょう。

仮に雨だけの覆いであれば、スコールの多い南方系のポリネシアンの風習で、もしかしたら後者なのかもしれません。

 到着直後、最初に気付いたのは、何故「潮嶽神社」と呼ばれているかでした。

 色々な事を言われているとは思いますが、潮とはミネラル・ウォーターの事でもあり、仮に船で相当奥まで入り込んだとした場合(弥生の小海進期の古代の地形を考えると、まんざら不可能とも思えない)、船にとっては真水の供給は最重要事で、今尚、豊かな水が滔々と流れ続ける現地は潮の供給地だったはずなのです。

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社殿の横を滔々と流れる水路と祖零社


唯一境内社かとも思ったものに祖零社がありましたが、代々の宮司家を祀るもののようで、摂社ではなく、もしかしたら草部吉見に縁のある一族なのかも知れません。

 さて、最期になりますが、参道左に朽ち苔た石塔(板碑)が置かれていました、それなりに磨いてようやく読めるところまで手入れをしたのが、以下の写真です。

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読み辛いのですが、ホスセリの尊=海幸彦が主神とされていないのです。

これも宮司にお聞きしないと分からない話ですが、そうせざるを得ない時代があったのではないかと思うばかりです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記
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