太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年12月18日

277 大中臣神社とは何か? “福岡県小郡市の草部吉見神社初見”

277 大中臣神社とは何か? “福岡県小郡市の草部吉見神社初見”

20160714

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

九州最大の交通の要衝、佐賀県の鳥栖ジャンクションの南東方向に大中臣神社があります。

 いつでも訪れる事が可能なところからこれまで保留していたのですが、最近この一帯を頻繁に通るようになりようやく見る機会を得たのでした。

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「福岡県神社誌」を見ると、天児屋根命を祀る村社として特別大きな扱いもされていません。

 個人的には、ニギハヤヒを祀る隣の福童神社を見たかったのですが、時間の関係で次回に回しました。

 古代には太宰府へと登る豊満川の河口を抑えるウォーター・フロントの要衝であり、徴税、入国、検疫・・・と往古は繁盛した地域であった事は想像に難くありません。

このような重要な港湾を古代に占拠していた集団は藤原氏の一族とそのエピゴーネン、追従者、以外にはありません。

 九州でも古代の重要な港湾には藤原氏の神社、例えば春日神社が置かれ、支配者として専横を振るっていたであろうことは想像に難くありません。

 そのような例を、宇佐市の駅館川の河口(古代の)の春日神社、八代市の球磨川河口の徳佛港の春日神社二社に見ますが、これもそのような神社の一つと見たいのです。

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「福岡県神社誌」では天児屋根命を祀る神社とされていますが、同社の神額を見ると、大中臣大明神を中心に、住吉大明神、春日大明神の三神が祀られているようです。

 当然にも、天児屋根命が大中臣大明神なのでしょうが、大明神と言う表現は明治の廃仏毀釈で排除されていたはずですので、それが残っていたと言うことから、@権力側の神社であった事から許された…、A明治以前の神額が復活した…、B元々、この一社三神体制が存在していた…と色々な事が頭に浮かんで来ます。

 天児屋根命が大中臣大明神であることは一目です。この方こそ阿蘇高森の草部吉見神社の彦八重耳命=武甕槌命=大歳神=天忍穂耳=支那津彦=春日大神=海幸彦…であることはこの間書き続けてきたことです。

 しかし、「春日大明神がダブっているではないか…」という声が飛んで来そうです。

 勿論そうなのですが、そこには春日神社、春日大社の本当の神様とは誰なのかと言う問題があるのです。

 この点についても、百嶋由一郎氏は話しておられました。

 元々春日神社とは権力を握った中臣鎌足一派(後の藤原氏)が自らの一族を守るための軍神が必要であるとして、自らの出自でもある阿蘇の草部吉見神=鹿島大神=武甕槌命(塚原卜伝が信奉したことで著名)を勧請したものがそれで、確かに藤原が想定した春日神社の主神とは武人としての建借間命(タケカシマノミコト)なのですが、その背後には隠された本当の神様がおられるのです。

 それは、実力者であった草部吉見神を入り婿として受け入れた辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ=豊受大神であり、その母君である神大市姫(罔象女神)の存在があるのです。

 これがこの春日大明神に反映されているかどうかは禰宜、神官しか分からない世界であり、あくまでも推定としか言えません。

 この神大市姫(罔象女神)はスサノウとの間に豊受大神を産んでおり、母系こそが重要な古代に於いては、本来の神様とはこの系統を言うのであり、その痕跡が同社に於いても素盞鳴命、菅原神を祀る摂社素盞鳴神社が存在している理由と考えられそうです。

 つまり、この福童とはスサノウ系の人々の済む集落であったことが分かるのであり、そこを制圧したのが藤原系=中臣系の人々であったと考えられそうです。

 もう一つの可能性は、大中臣大明神は、直接、中臣鎌足を祀り、春日大明神を草部吉見神としている可能性も無い訳ではないでしょうが、祭神を天児屋根としている以上、草部吉見が大中臣大明神として中臣の従って藤原の先祖であるとしているように思います。

最後に住吉大明神とは誰なのかという問題があります。

 これについては、底筒男命=高良玉垂命、中筒男命=贈)崇神天皇、表筒男命=安曇磯良という定式をいつもお示ししていますが、贈)崇神天皇こと中筒男命=住吉大明神という事で良いと思います。

 それは、草部吉見と市杵島姫との間に産まれた大山咋=日吉神社=松尾大神=日枝山王=佐田大神が、鴨玉依姫との間にもうけたのが贈)崇神であるからです。

 ここまで見てくると、明治期に排斥された明神がずらりと居並ぶ神額は、やはり戦後辺りで戻されたか、廃仏毀釈の嵐が収まった時期に戻されたと見るのが正しいように思います。

 この辺りの事情については、日吉神社におられた多田宮司が大中臣神社も兼務されていたようですので、非常に研究熱心で、神社に精通されていたことからお元気ならばお聴きできたのですが、だいぶ前に鬼籍に入られたと聴いております。

 境内には、その多田宮司が書かれたと思われる木製の解説盤が残されていました。

 多田宮司は九州王朝論者と言う訳ではないものの、小郡一帯には「記」「紀」に出てこない不思議な年号が大量に使用されているとして、正確に記録され自家製本を作成されています。

 その一部は、今でも「小郡市誌」でも読むことができますが、「記」「紀」、学会通説に尾を振る事しかしない教育委員会、学芸員、その追従者である史談会、郷土史会…が真面な扱いをしなかっただろうことは周囲の状況から十分に推察できるところです。

 十年ほど前までは、このような立派な業績を残される研究熱心な宮司もおられたのですが、現在は全く期待できないどころか、皇国史観丸出しで多田宮司の業績も踏みにじるような方しかおられないようです。

 一般的には「貧すれば鈍する」の謂いのとおり、神社の経営と収入の増加にしか関心のない宮司が多くなり、思い込みと行政権力への奉仕だけが生き延びる道と考えておられる方ばかりになりつつあります。

 故)多田宮司の立派なご業績も全く生かされること無く埋もれていく事でしょう。

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故)多田 隆宮司による「小郡の神々」(一部)

この小郡地区には「記」「紀」などに登場しない不思議な年号が寺社の縁起に大量に存在している事から、丹念に調べられ、貴重な資料を残されています。

しかし、引き継ぐ方がおられない事から消え去るどころか、継承する神職などには、無視するどころか敵視する方さえもおられるようであり、実になさけない限りです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:35| Comment(0) | 日記
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