太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年06月03日

192 豊前の諏訪神社(添田町中元寺)への興奮

192 豊前の諏訪神社(添田町中元寺)への興奮

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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 一応、川崎町も添田町も田川郡は豊前の領域ですが、一般的には通常言うところの「筑豊」の方の通りが良いためここでは筑豊で話を進めたいと思います。

筑豊でも川崎町の南隣りと言うか、東隣りの彦山の北麓に添田町があります。

この添田町の懐奥深く、中元寺川の辺に諏訪神社が鎮座しています。

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正直言って田川郡の奥に諏訪神社があるのには驚きました。

肥前、肥後、筑前、筑後では、「お諏訪さん」の呼び名で比較的見掛ける神社ですが、筑豊には存在しないと思っていました。

福津市にかなり大きな諏訪神社があるのは承知していたのですが、彦山の裾野の懐深く、穏やかな地形に囲まれた好地に静かに鎮座する諏訪神社はその存在を知るだけで穏やかな興奮を覚えたものでした。

祭神はと言うと次の四神です。


建御名方  (大国主御二男) とするが、百嶋神社考古学ではそれを認めない

多力雄命            実はスサノウ

片闇邊命                   実は事代主命で重複ではないか?

蛭子命   (事代主命大国主御長男) とするが、これも百嶋神社考古学では認めない

同社縁起にも登場する二人の主神の「兄神」事代主命を祀る恵比寿神社は福岡県下でも300社は超えるでしょうが、建御名方を祀る神社は非常に少なく多分負組なのです。


全国に約25,000社あり、長野県諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。

岡田莊司らによると、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)であるという。

                  「諏訪神社」ウィキペディア20160206 08:00による


公式見解はともかくとして、百嶋神社考古学の立場からは出雲神話の舞台は現「出雲」ではないのです。

「古代出雲」とは大幡主の一族が展開していた領域の総称であり、九州全域から西日本の海岸部に今は消えた多くの出雲と呼ばれる領域があり、そこには蒲生、鴨、隈…といった地名が付されているのです。

旧桂川町の「出雲」もその一つなのです。

さらに言えば大国主が国譲りをしたのは九州であり、国譲りの結果その移動した国が現「出雲」であり、言わば大和朝廷により造られたテーマ・パークが現「出雲」なのです。

まず、百嶋神社考古学では建御名方命も蛭子=事代主命も大国主命の子としません。それどころか二人は兄弟ですらありません。

しかし、「古事記」では国譲りに抵抗し最後は諏訪から出ない事を条件に許されたのが建御名方命であり、だからこそ武田信玄も軍神として崇めたのであり、島津も鹿児島に多くの南方神社を崇ったのです。

一方、事代主(蛭子)は帰順派として国譲りを早々に受け容れた事から、福岡、北九州に300社も社を持っているのです。

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立派な文章で書かれた同社縁起

歴史の証人としての諏訪神社

「当 神社ハ、大和時代前期ヨリ古事記ニ散見セル豊前、豊後、筑前ノ水分中元司川(早瀬川)彦山川流域ノ開拓神トシテ大国主命ニ従ヒテ瀬成大神ト合計リテ治水、 農耕開発・国土経営ニ当タラレタ出雲系氏族ノ氏神ト崇メラレ延命長寿、子供達ノ守神祖霊鎮守ノ御社、郷人々ヨリ御諏訪様・諏訪大明神ト称サレ」…

と、「古事記」にも全く記述のない「彦山一帯の大国主による開拓という」事実を記録しています。

当方が主張する宗像大社祭神=大国主命とも符合します。

では、祭神の片闇邊命(カタクラベ)は一体誰なのか見当が尽きませんでしたが、神社考古学研究班のU女史によると、事代主命の別名だろうとの事でした。

片 縄、片島、「片○地名」は全て事代主関係との話を百嶋先生からお聴きしていますので、まず、間違いないでしょう。同社の神社縁起はこの点が分からずに、事 代主を受容した時期(江戸時代)に誤って重複記載したものと思います。なお、別社名の「両神社」の意味は主要二神によるもので良いでしょう。

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最後に、同社の鳥居の神額に改竄の跡を見つけました。

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同社鳥居神額

明治の神仏分離令の名残か?

明治の「明」を消したのが吉田神道の神仏分離政策でした。

神仏混淆(神仏習合)の痕跡を消すため陰刻を埋めてありますが、現在までそれが解る様に埋めたとも言えそうで抵抗(抗議)の意味かも知れません。 ここの神仏分離は当然にも彦山山岳修験であることは言うまでもありません。 これは、参拝殿に彦山の大きな絵馬が置かれている事でも容易に想像が着きます。

勿論、明神(ミョウジン)や権現(コンゲン)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号ですね。

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建御名方命と事代主命とが大国主命の配下としても親子でも兄弟でもないことが解りますね

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記
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