太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月06日

伊倉022 天子宮は誰を祀るか? 022  “佐賀県鹿島市七浦の天子神社”

伊倉022 天子宮は誰を祀るか? 022 “佐賀県鹿島市七浦の天子神社”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


長 崎本線を佐賀から長崎に向けて下ると、有明海沿いに肥前鹿島、肥前浜、肥前七浦、肥前飯田、肥前多良(太良町)・・・と、肥前を頭に付けた駅が連続します が、この肥前七浦駅の奥に音成(オトナリ、オトナシ)という奇妙な名の集落があります。今回はこの音成の天子神社の話です。

まず、佐賀県の有明海側では鹿島市一帯まで来ると浦地名が目立ち始めます。

そ れ以前の港、例えば、旧有明町(現白石町)の廻里津や川津(白石町)などは、干拓が進んだために内陸に埋もれています。いずれにせよ、浦地名は鹿島市と旧 塩田町、旧有明町(現白石町)との境界の深浦、浅浦辺りから始まるのです(西浦、谷浦、提ノ浦など武雄市周辺にも多くの浦地名も内陸部に埋まっています が)。

鹿 島市を海沿いに南下すれば、南舟津から母ケ浦(ホウガウラ)、七浦、嘉瀬ノ浦、竜宿浦(ヤノウラ)、飯田浦、江福、伊福(太良町)と多くの浦地形と浦地名 が認められますが、その全てが戦国期辺りからの篭(コモリ)干拓を経て、長崎本線の建設(昭和十年前後)に伴う小干拓(長崎本線の鉄道路を事実上の干拓堤 防としたその内側の耕地化)によって、指先を広げた指先のような地形が消え、河童の水掻きのような地形になっているのです。

難しく表現すれば、


多良岳裾野の放射状谷は浸食谷であるが、「佐賀県地質図」によると、殆んど沖積層の記号で描いてあるが、それは、雨水や河川の浸食作用による浸食谷か形成された後、地質年代でいう沖積層(一万年前〜至現在)に土・砂礫の埋積が行なわれたからである。

『ふるさと七浦誌』七浦学校同窓会発行


と、なります。

こ の天子神社がある音成地区もそうした一つになりそうです。今は周りが水田に変わっていますが、かつては入江に突き出した岬であり、その先端に天子宮があっ たはずです。現在でもその一の鳥居があるように、恐らく、古代においては船で先端に着けていたのでしょう。それを物語るかのように岬の裾には今でも海食崖 の痕跡があります。

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とりあえず、郷土史などの資料を見てみましょう。

祭神 瓊々杵尊

合祀 大山祇神 武甕槌神 経津主神 菅原道真

   天平年間(七二九〜七四八)に日向の国高千穂の大神を分祀したと伝えられ、昔は日出岡神社と称し相当な大社で、七浦中(西葉浦、母ケ浦、塩屋浦、宮道浦、音成浦、嘉瀬浦、龍宿浦の七浦)の鎮守社であった。祭日には郷中の者がその前日から参詣して奉仕した。・・・

鹿島市誌資料編第六集『鹿島の神社と寺院』


村社     天子神社

祭神

大山祗命

瓊々杵尊   武甕搥命  菅原道真  

       經津主命

『佐賀縣県神社誌要』 洋学堂(大正十五年印刷を平成七年に復刻したもの)


三の鳥居には「昭和十二年奉献皇紀二千六百年」と、ありましたが、前述したように、この一、二年前に長崎本線が開通していますので、鉄路の建設が事実上の干拓堤防の建設に当りますからそれに併せたもののようにも思います。

ここには三本の鳥居がありますが、船着場だったと思われる一の鳥居(一の鳥居とは社殿の一番外側の鳥居です)から石段を登ると岬の突端に社殿があります。二の鳥居は山王神社とされていますが、一、三の鳥居には「天子神社」と書かれています。

 一方、この天子神社は浮流(フリュウ、フウリュウ)と呼ばれる舞が廻れることでも有名なところです。万葉集(16)「ここに前(さき)の采女(うねめ)あり、−浮流の娘子(おとめ)なり」・・・(広辞苑)

この浮流と九州王朝の関係については古賀達也氏も言及されていますが、これも宮廷舞の可能性が十分にありそうですね。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:48| Comment(0) | 日記
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