太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月06日

伊倉021 天子宮は誰を祀るか? 021010“道君首名による統治の背景”

伊倉021 天子宮は誰を祀るか? 021   “道君首名による統治の背景”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、伊倉として天子宮について書いてきましたが、今回は一休みして軽い話をしましょう。

私は将棋連盟の某支部の末席を汚していますので、九州、山口で行なわれる将棋のタイトル戦の大盤解説会にはほとんど出かけています。

当然ながら夏は王位戦になりますが、今年の王位戦第四局は福岡県筑紫野市の二日市温泉「大丸別荘」で行なわれました。結果は角替り腰掛銀の先手番を持った深浦康市八段が羽生王位に勝ち、王位奪取まであと一勝としました。

最高一日九湯、自宅の風呂で一湯、年間二百湯という温泉好きの私のことですから、ここの名湯を無視できるはずもありません。当然ながら解説会の合間を利用して源泉掛け流しの名泉「次田の湯」に二度、三度と入った訳です。

将 棋の観戦記でも温泉のガイド・ブックでもありませんので、浴場に向かう途中、立会の田丸八段とすれ違ったこととか、この浴場の造りの素晴らしさや泉質の良 さを書く事は致しませんが、風呂場の入口に掲げられていたこの湯の由来に『梁塵秘抄』を引用したものがあり妙に面白かったので紹介することにしました。

この温泉が歴史として登場するのは奈良時代まで遡ります。ただし二日市温泉という呼称は昭和二十五年からのものであり、古くは武蔵温泉、薬師温泉などと呼ばれ、奈良、平安期には次田温泉(スイタの湯)と呼ばれていたのです。

カメラを持っていった訳では有りませんので、不正確かも知れませんが、『梁塵秘抄』を引用して書かれた次田の湯への入湯の優先順位について再現します。


“次田の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺四には四王寺五侍六せんふ七九八丈九{丈十には国府の武蔵寺”


一 は太宰府の高官、二は丁つまり観世音寺の僧侶、三に安楽寺(太宰府天満宮)の僧侶、四に四王寺、五、六に太宰府の武士、料理人・・・七、八は意味不明、九 に太宰帥警護の武士、十に武蔵寺の僧侶ということになるようです。恐らく平安末期のざれ歌の類と思いますので、この順位が七世紀末から八世紀まで遡れるか どうかまでは分かりません。

一方、太宰帥であった大伴旅人の書いた歌(『万葉集』の詞書)に次田の湯の事が出ていますので、彼が二日市温泉を知らなかったはずはありません。


りょうじんひしょう【梁塵秘抄】

平安後期の今様(いまよう)歌謡集。撰者は後白河法皇。成立年代不詳。歌謡集・口伝集各10巻があったとされるが,・・・(中略)・・・平安末期の庶民感覚が生き生きと表現されており,文学史・音楽史のみならず風俗・思想史上にも重要な資料である。

(マイペディア)

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椿花山 成就院武蔵寺天台宗 カーナビ検索 福岡県筑紫野市武蔵621


さて、私たち九州王朝を考える者にとっても、太宰府に最も近い二日市温泉には多少は関心を向けても良いのではないでしょうか。

 安楽寺は太宰府天満宮以前、神仏混交期の名称ですので、単純に九州王朝と関係付けて考えてしまいますが、やはり重要なのは観世音寺であり、その事が『梁塵秘抄』においても確認できるように思います。

 大伴旅人は太宰帥であった時期(728730)があることはもとより、七二〇年には征隼人持節大将軍として薩摩、大隈に征討に向かっていますので、その前後、この「次田の湯」に入ったことは、まず間違いがないでしょう。

律令時代に入ると、一帯は御笠郡とされ、大野、次田、御笠、長丘の四郷となります。

 白村江の戦、敗戦後の唐軍による占領、九州王朝の消滅・・・という激動期にも二日市温泉には豊な湯が沸いていたのです。

 根拠はありませんが、二日市温泉はその開湯を四世紀から五、六世紀ぐらいまで遡ることができるかも知れませんので、倭の五王も柿本人麻呂も、そして、もしかしたら卑弥呼もこの湯に入ったのかも知れないのです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:44| Comment(0) | 日記
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