太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年02月02日

伊倉011 天子宮は誰を祀るか? 011 “道君首名の末裔としての金光上人”

伊倉011 天子宮は誰を祀るか? 011 道君首名の末裔としての金光上人


20071206

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古田武彦氏の親鸞研究はつとに有名ですが、それは置くとして、最近、道君首名の人物像を探る上で興味深いことに気付きました。時代は平安末期から鎌倉期に下ります。浄土宗の開祖、法然の直弟子の一人に後に金光上人と呼ばれる人物がいました。 

実はこの金光上人が筑後の出身であり、八世紀に活躍した道君首名の後裔に当るのです。

上人は福岡県浮羽郡水縄村石垣の出身で父は竹野長者といわれる豪族であり、母は橘方子(筑後の旧吉井町に橘田という大字がありますし、私の住む佐賀県武雄市橘町にも濃厚な橘氏の末裔の伝承があります)とされていますので恐らく橘氏でしょう。

上人は、筑後の高良山の御井寺(天台宗)で修行した後、叡山に上ること二十年、筑後の石垣観音寺の別当になります。

この石垣観音寺(現在の石垣神社)は和銅元(七〇八)年開基という古刹であり、古くは十三の末寺と筑後守から与えられた七十五の寺領を所有していたというのですからその力が推測されます。

後 に別当所領に争いが起り、上人はその解決のために鎌倉に上ることになるのですが、果たせぬうちに法然の弟子である安楽房の知己を得、自らも法然の弟子とな ります。これにより奥州に入り、浄土教研究者の間でもあまり知られていない『末法念仏独明抄』を残すのです(このことについては古田史学会報七号掲載の “和田家「金光上人史料」発見のいきさつ”を併せてお読み下さい)。

私には阿部一族の中でも大和朝廷への抵抗派ともされる謎の安東一族の領域に向かったようにも思えるのですが、想像が過ぎるかもしれません。

仮に道君首名の出自が阿部氏としても、その後裔が本国に戻ることなく有力な豪族として連綿と土着し続いていたということ、また、九州王朝の本拠地と考えられている高良大社との関係が推察されるなど、非常に興味深い問題が残されています。

こ こまで考えてくると、道君首名の一族の性格に注目せざるをえません。一定、大和朝廷との関係を維持しているとしても道君首名は必ずしも大和朝廷の直接的臣 下ではない上に、白村江の敗北後の唐軍による占領から八世紀初頭の九州王朝滅亡によっても、直ちに近畿天皇家が直接支配を及ぼせなかったという可能性まで も考えさせるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:29| Comment(0) | 日記
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