太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年12月04日

142 香春町の現人神社 “近接する大君様(おおきんさん)は神武と崇神のどちらを祀るのか?”

142 香春町の現人神社 “近接する大君様(おおきんさん)は神武と崇神のどちらを祀るのか?”

201500817

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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福岡県香春町の現人神社


福岡県香春町(田川郡)に現人神社があります。


カーナビ検索豊前 田川 福岡県田川郡香春町大字採銅所


交通
日田彦山線 採銅所駅 線路を北へ300m戻り、左に折れて道なり5分祭神  都怒我阿羅斯等
由緒
 三ノ岳の麓の彩銅所に鎮座する。
 祭神は天日鉾とも呼ばれ、また都怒我阿羅斯等とも呼ばれた、この新羅からの渡来系金属精錬集団の齋祀る神であり、彼らの足跡がここ香春に現人神社として残る。
 更に、国東半島の東に姫島があり、天日鉾の妻とされる比賣許曾神が祭られている。豊の国と日鉾集団の生々しい足跡である。 これは、この金属精錬集団が筑紫は伊都國辺りから豊の国を通過し、豊穣の海である瀬戸内海への拠点を設けているようにも見える。 この集団は漢氏より遅れ来た秦氏の集団に相当する。
 さて、福岡県筑紫郡那珂川町にも同名の神社が鎮座しており、祭神は住吉三神である。 筑紫の住吉神社の発祥の神社との説がある。
  その那珂川町の神社の由緒によれば神功皇后の軍の軍船の舳先に御代を現し玄海の逆巻く波風を鎮め、玉体を護り進路を導き無事凱旋せしめた神である。 すなわち現人神の御鎮座の地を皇后自から神告にてお知りになりいたく畏み奉られ、武内宿禰をして当地に遺し当宮の水田に水を引き、五穀豊穣の誠を捧げら れ、現人明神の尊号を授けたと云う、現人神社の名称の起原である。これが那珂川の明神の由緒である。
 双方の現人神社は天日鉾ー神功皇后ー住吉神との関連を示す重要な生きている遺跡と言えよう。尤も、天日鉾が浪速方面へ展開しようとして、これを遮ったのが住吉神とも伝わる。 筑紫の住吉神と浪速の住吉神は本来違う神であろうか。
 豊の国、天日鉾、住吉神 ここらが、我が国の古代の形成に大きい役割と謎を残したようだ。
たたずまい
 現人神社と鳥居に誇らしげに掲げられている。宮司は鶴賀さんである。
 この辺からは、香春岳の第三岳しか見えないし、さほど特長的ではない。第三岳の北側がら香春岳への登り道があるそうだが、許可が要るそうである。 穴や崖が多く、山中で捻挫など、経験者は語っている。

敬愛する「神奈備」による


 現人(アラヒト)神社という仰々しい神社が、あたかも採銅所の支配者かの如くその傍に置かれています。

 この一事を持ってしてもこの神社の重要性が分かるのですが、付近には、古宮八幡宮、鏡山神社、香春神社もあることから、単に傍にあるから云々との議論は慎重さが必要とされそうです。

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まず、現人神社については、福岡県那珂川町に同名の神社がある事を「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)017 那珂川町に「天御中主神社」が存在する訳 でも紹介しています。

その他にも福岡県みやま市(旧瀬高町)の河内地区の荒仁神社が、また、当の香春町にも日田彦山線を挟んだ反対側にも分社と思われる現人神社があります。

この現人神社が何かについては、神奈備氏も福岡県筑紫郡那珂川町にも同名の神社が鎮座しており、祭神は住吉三神である。 筑紫の住吉神社の発祥の神社との説がある。」とされているように、百嶋神社考古学の立場からは、本来の祭神とは異なるものにされているようです。

勿論、住吉三神の中筒男命が贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトと考えますので、照応しているのですが。

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ここの神社縁起を読む限りは、祭神をツヌガノアラシトとしていますが、意富伽耶の王子で新羅の姫(アカルヒメ)を追ってこの地に入って来たとしています。

念のためにアカルヒメについて確認してみましょう。


阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女である。

古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。

20150818 0900 ウィキペディアによる


同社の縁起では、「日本書紀」に沿って書かれていますが、当方としてはそれ自体を否定しますので、ここにも現人神社がある事だけを確認したいと思います。

下をご覧になればお分かりの通り、天之日矛に追われたアカルヒメとは、縁起では新羅の姫とされていますが、豊玉彦(ヤタガラス)の姉であり、天之日矛も新羅の王子だったスサノウなのです。

簡単に言えば藤原によって天皇扱いにされた贈)崇神天皇がスサノウを装っている事になるのです。

また、その贈)崇神もツヌガにやって来たアラ(安羅伽耶)の人(シト)であり、同社の宮司も、新羅からツヌガ(敦賀)に入って来たとする誇り高き名を留め、宮司は鶴賀さんである。(神奈備)ツヌガとされているのです。

最後に、この神社を再訪した事でやはりと思った事がありましたのでお知らせしておきたいと思います。

それは神殿の背後地に、須佐社と貴船社が置かれていたことです。

先に贈)崇神はスサノウを装っているとしましたが、先住の権力者であったスサノウが追われた結果が残されている様に見えるのです。

これは、百嶋神社考古学でなければ謎解きができない事ですが、日本では前の神を粗末にできない(勿論祟りを恐れるとも言えますが)国民性があり、どうしても痕跡が残されるのです。

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貴船神社 須佐社

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百嶋最終神代系譜(一部)


貴 船神社もある時期には不遇にされた(今もかも…)先住者と思える地区に多く見とめられるのですが、今回、ツヌガノアラシトとは贈)崇神であり、何故かスサ ノウの事績が置き換えられていると言う認識を持って香春の現人神社を見た事により、境内社として須佐神社(恐らくスサノウ)が残されている意味が多少は見 えて来た思いがしています。

もうひとつ、ここには、「臺」の別字を充てる非常に珍しい姓の「ダイ」さんが、多数お住まいになっておられます。

これが、新たな征服者側の家系の方か、それとも被征服者側の先住者側の家系の方なのか関心を持っていますが、そのうち家紋や伝承をお聴きしたいと考えています。

豊の国古代史研究会のBさんからお聴きしたところによると、この神社の裏山には、崇神天皇の子の垂仁天皇の墓があるとの伝承があると聴き、一軒ほどお話をお聴きし裏山に入ったのですが、判然としませんでした。

また、機会を求めたいと思っています。

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かつて「陛下は現人神に在らせられる」などと大袈裟な事が言われたことがありました。

単に朝鮮半島の安羅伽耶からやって来た後に崇神天皇などと格上げされた半島人だったのですが、このあたりが一番難しい部分です。

中途半端でもありますが、ここまでとしておきます。

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ここにも猿田彦が祀られていますね、実は香春神社の主神 辛国息長大姫大目命(アメノウヅメ)をお妃とする山幸彦=ニギハヤヒ命の事なのです


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:23| Comment(2) | 日記
この記事へのコメント
福永晋三先生を信望しています。おおきんさんは神武天皇の墓に間違いないと思いますが、隣の鏡山大神社は方墳の形をしており、卑弥呼の墓であると思います。前方後円墳の原型と見るのが正しいと思います。
Posted by 田川 稔 at 2017年05月24日 23:51
古川です。「福永晋三先生を信望しています。おおきんさんは神武天皇の墓に間違いないと思いますが、隣の鏡山大神社は方墳の形をしており、卑弥呼の墓であると思います。前方後円墳の原型と見るのが正しいと思います。」
と書かれていましたが、この神武は崇神とはお考えにはなりませんか?
Posted by 古川です。 at 2017年07月08日 00:11
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