太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年07月05日

091 宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”

091 宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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宇佐神宮には寄藻川が流れていますが、そこに「マジソン郡の橋」のような優雅な屋根付きの橋「呉橋」があることはご存じだと思います。


創建年代は不詳であるが、鎌倉時代より前に存在していたといわれる。中国のの人が架けたと伝えられ、これが橋の名の由来となっている。1301年(正安3年)には勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成が「影見れば 月も南に 寄藻川 くるるに橋を 渡る宮人」という歌を詠んでいることから、この頃にはすでに呉橋があったことを確認できる。

ウィキペディア20150405 1030による


呉橋は、宇佐神宮の隣の薦神社(中津市)にもあるのですが、では、何故、宇佐神宮や籠神社に呉橋が置かれているのでしょうか?  現地には呉の工人が架けたとの説明書きが置かれています。

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呉との関係が濃厚などとは全く言えない応神天皇や神功皇后を祀る宇佐神宮に、「呉の工人が架けたから呉橋…?」との奇妙な説明がなされていること…について の解読は後段に譲るとして、ここから真っすぐ西に古道が延び、贈)応神天皇ことホンダワケ)がいたとされる摂社鷹居社(天理教宇佐大教会付近)から駅館川を渡って中津市の薦神社へ(実は第10代贈)崇神天皇を祀る…?)、さらに北へと延びる勅使道が存在していたのです。

 そのなごりとして、呉橋から数百メートルのところには今も化粧井戸が残されています。


<勅使道>


古代より、宇佐宮には天皇即位や国家異変などに際し、天皇の意志を伝える勅使が派遣されました。宮道を進んだ勅使は、駅館川沿いの宇佐駅から宇佐宮へと参向したため、この道は勅使道と呼ばれました。江戸時代、宇佐宮の神官は松隈で勅使を出迎えました。

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この古代の勅使道は、中津市の薦神社を通りさらに北西方向へと向かい、あまり知られていませんが、豊前市の大富神社へと延びているのです。

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しかし、何故この勅使道は宇佐から西へと延びているのでしょうか?

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問題はこの勅使道です。勿論、国土交通省系の「北九州の五街道を往く」を始めとして通説派の御高説が多数あることは承知していますが(以下、ほんの一例)、


「さて、益軒の通った上往還は、勅使道とも呼ばれました。京都から宇佐神宮に下向する奉幣使(勅使)が通ったからです。この宇佐で上往還と下往還は合流します。上往還を往く益軒は高瀬川を越えて、下往還を行く菱屋平七は中津川を越えて中津の領内を行き宇佐を目指します。」


一目苦しい説明といった観が否定できません。それは何故かと言えば、宇佐から奈良、大和、京都へ向かうとして、西へと向かう必要はないはずなのです。

平 然と書かれてはいるのですが、古代においてはなおさらの事、豊後高田から国東半島の先端たる、伊美辺りから船で出て、姫島を迂回し吉備路ならば柳井から下 津井、伊予路ならば松山から今治へと向かうはずではないですか(神代においてさえ、アカルヒメは海路をとっているのですから)。

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気になるのは、大富神社の社伝ですが、これは往路とも復路とも読めない事もないのですが、復路、九州でも、豊前、筑豊の勢力と連絡を取るために西に向かった様にも思えるのです。

何れにせよ、八世紀前後まで、この勅使道は遡る事が可能な上に、この西へと延びるルートから考えて、元々、香春岳三山の香春神社、筑前大分の大分宮平安時代の延長元年に八幡神が大分宮から博多の筥崎へ本家移転遷座)を経由し太宰府から久留米へと延びていたのではないか(起点は久留米大善寺町)と考えているのです。なお、探索は続きます。

太傅府

 太宰府の北東約14kmに大分(だいぶ)の地名があって、ここに大分八幡宮がある。宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、「大分宮は我本宮なり」と記されている。

  また、宇佐八幡・岩清水八幡とともに日本三大八幡宮の一つである箱崎八幡宮は、923年(759年説あり)に、大分宮が箱崎の地に遷座したものである。す なわち大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎八幡宮の元宮でもある。これほどの格式をもつ神社がこの地にあるが、地元の人以外には案外と知られてい ない。神殿裏山は皇室古墳埋蔵推定地になっていて、境内には応神天皇産湯の井戸がある。宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったとする伝承の 地である。

「電称倭国伝」より

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:09| Comment(0) | 日記
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