太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年05月24日

078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で” 

078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で” 

      20150225

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!において、同社の祭神が神功皇后ではなく 阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)、藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神であった事は述べましたが、ネット上でも「筑前國續風土記拾遺」によるとして、HP「古代妄想」氏が以下のように書かれています。

 古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
 筑前國續風土記拾遺によると「

中 殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げ られたりと祀る。」とある。藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である。
 塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。
 津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。


では、阿部相凾 阿部丞相とは誰の事なのでしょうか?

 神功皇后の夫である第14代仲哀天皇とすれば都合が良さそうですが、それならそう書いたはずで、そうではないはずなのです。

 ここから先については故百嶋由一郎氏の話になりますが、後の高良玉垂命=ワカヤマトネコヒコは、当時、津屋崎一帯にいたようで、若宮、猫峠、猫塚に名を残している。

「高良玉垂宮神秘書」に書かれるように太宰府四王子山でウガヤフキアエズから三種神器の返還を受けている(これが第二期の本物の住吉神の誕生)。

その後、高良山に登り、「記」「紀」が第9代とする九州王朝の天皇(開化)となった。

つまり、高良玉垂命の誕生です。

ただ、当時の情勢の中で、一時的に母違いの兄である大彦命の阿部姓を使用されていた。それが、「阿部相凾」「阿部丞相」(総理大臣より上)であり、藤大臣(トウノオトド)とも呼ばれていた(玉垂命は藤を好んでおられたことから九州王朝系の神社や仏閣に藤棚が多いのはそれが理由である)。

無題.pngその高良玉垂命は、仲哀死後の神功皇后と夫婦となられ、以後、死ぬまで(何十年と)共に過ごされた。

では、なぜ、その高良玉垂命が消されているのかですが、白村江の戦いに負けた事によって九州王朝が消滅へと向かい、最終的に九州の宗廟を宇佐八幡宮へと渡す(天平勝宝元年=749年)事により百年を掛けて九州王朝の存在そのものが消されたのだと考えられます。恐らくそれは唐を意識した「日本国」による「倭国」隠しでしょう。

勿論、現在の高良大社には表向きには神功皇后は祀られていません。

 ただ、高良大社にも、一部に高良の神とは女神だったとの伝承が残っており、恐らくこれも、一時期、第9代開化天皇を消し、夫婦であった神功皇后をも消す必要性があったからだと考えられますが、最終的には高良玉垂命を武内宿禰とすることを持って解決が図られた(全国的には武内宿禰説が多数派、直近には有馬藩の判断)のです。

 福岡県みやま市の旧山川町の山中には、山の神宮と呼ばれる神社があり、表から入ると高良神社だが中に入ると宮地嶽神社いう奇妙な構造になっていると言う話を百嶋先生から聴いています。

 これなども、“無理やり分離はしたものの、七夕同様にせめて一年に一度は夫婦を一緒にさせようとしたものではないか”と言った趣旨で話しておられました。

 一度、訪問したのですが、当時は良く分からなかったことから、再度、確認したいと思っています。

  近畿大和朝廷にとって都合が悪い事は、@対外的には唐王朝に歯向かった倭国と、近畿大和朝廷(日本国)とは全くの別国であるとの国是に反する形跡が在るこ とであり、A外交上その可能性が高い北部九州に於いて栄えある九州王朝の大王とその継承者の痕跡を全て消し去る必要があったはずです。Bこれが、宮崎県以 外の九州に高良玉垂命を祀る神社が確認できるものの、表玄関の筑前、豊前に存在しない理由かも知れません。また、C対内的には大和朝廷は唐に対しては全力 を上げて戦ったとしつつ、その実、唐と繋がる事を持って漁夫の利を得た氏族も少なからずいたはずで、その系統がその後の権力を左右する事となり、ある神は 隠されある神は持ち上げられ、その事により下剋上も起きたはずで、九州王朝系の旧皇族も藤原の手により賎民へと落とされるものも数多く出たのではないかと考えています。

この点、九州王朝の影響がようやく及び始めた北関東以北にほぼ被差別部落が存在しない事実と対応しているものと考えています。

皇別氏族で考えれば、宇佐神宮の応神と高良玉垂命とが入れ替わった事は明らかであり、それに関連する一族が各々貶められ、成り上がったことは想像に難くないはずで、それらの問題が神社の祭神に影響を与えている事は容易に想像できます。

まず、高良玉垂命が第9代開化天皇であった事、半島にも轟いた名高い神功皇后と夫婦であった事、九州に近畿大和朝廷に先行する古代国家が存在した事、それら一切を消し去ることを持ってようやく奈良を中心とする王権が安心し存続できる基盤が確立したのでした。

そ のため、都合の悪い事はほとんど蓋にされ隠され続けてはいるのですが、九州には、地方の神社縁起、伝承、祭神、神体など、まだまだ不都合な事実が数多く 残っており、それらを容易に見ることができない、見ようともしない役人と化した学者や研究者によって歴史が捻じ曲げられたまま、全く真実に迫れなくなって いるのです。

下 は「追分」で有名な北海道は江差町の江差山車会館に置かれた二隻の船形のヤマ(博多と同じように呼びます)の写真が載る昔のパンフレットですが(故百嶋由 一郎保存)、ここには宮地嶽神社の神紋である三階松をあしらった宮地嶽大明神(恐らくこれが阿部相凾)を乗せる山車と抱き菊の葉に十六葉菊をあしらった神 功皇后の山車(姥神神社HPによると神功山車と説明)が、ある時期、揃って展示されていたのです。

このことだけでも、三階松が神功皇后の神紋でない事が分かるのですが、なにぶん、北海道の江差を踏んだこともないことからこれ以上の説明は保留します。

ただ、北前船が活動していた江戸期までは堂々とまかり通っていた訳で、宮地嶽神社では明治以降、高良大明神と神功皇后との分離が進んだものと思われます。

従って、宮地嶽神社の神体山の頂上の古宮には高良玉垂命(もしくは若きワカヤマトネコヒコ)の痕跡が残され祀られているのではないかと考えています。

勿論、目立つところは分離され、そうでないところは目が行き届かないことから残されるのですが、主祭神として高良玉垂命と神功皇后とが並んで祀られていたところがあります。旧瀬高町(現みやま市)河内の河内玉垂宮(現仁神社)です。

ただ、これについては、つい最近、安置されていた神功皇后の像までがなくなり、現在では高良玉垂命の神紋五七桐と神功皇后の神紋である三五桐が並んで置かれているだけです。

このように時代の流れと政情の変化によって、絶えず祭神、社名、神紋は変わる事を理解しておいて下さい。

変わる事によって全く分からなくなる場合もありますが、逆に我々が予想していた通りだったということが透けて見える場合もあります。

日本人の特性として不味い場合でも神様は粗末にできないという気持ちから、普通は極力残そうとするものなのです。

あとは神社を見る目を鍛える以外古代の深層=真実に迫る方法はないのです。


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この資料は20131月に宮地嶽神社で予定されて新春神社考古学研究会(久留米地名研究会主催)に向けて故百嶋由一郎先生が準備されていた資料の一部です。

この話をされることなく旅立たれて行きましたが、これについて当方の解釈を加えて説明させて頂きました。

なお、在自山の金毘羅神社には、秦の始皇帝と縁組をした瀛氏の頭領の金山彦が祀られています。

未確認ですが、恐らく元宮もそうだと思います。

これについても、百嶋先生は「第一期の九州王朝を支えたのは金山彦だった」と言われていました。

宮地嶽神社の背後に金山彦が鎮座されていることは、庇護者として背後からの敵(近畿大和朝廷と連動する輩かはたまた新羅か?)を防衛しているように思えるのですが、考え過ぎかも知れません。

ルートが確認できれば、宮地嶽神社に集まり両方の元宮を巡るトレッキングを行っても良いのですが…。

と、ここまで学会通説から外れるどころか、それを批判する九州王朝論者の中でも異端派に入る非古田系の九州王朝論者の説からも大きく離脱した内容で展開してきました。

 勿論、これは一過性の作業仮説でしかなく、調査の進展によっては大きく変わる可能性もありますが、現段階で言える事、書き遺しておく必要性のあることを書き留めた演習ノートと考えて下さい。

 所詮、何の権威もない神社研究者のはしくれの戯言ですので、対外的な問題が生じるとも思えませんし、大家の先生方の御高説は有難く拝聴したいと考えています。

最後になりますが、少し緩和した内容で、普通の方々にも理解できる宮地嶽神社のアウトラインを描いて見たいと思います。078 宮地嶽神社と安曇磯羅 K “将来の宮地嶽神社参拝者のために”…に継ぎます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:52| Comment(0) | 日記
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