太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年05月21日

077 宮地嶽神社と安曇磯羅 I “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(下)”

077 宮地嶽神社と安曇磯羅 I “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(下)” 

      20150223

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「記」「紀」の系譜や皇別氏族から見ても、第8代孝元、第9代開化天皇周辺と宮地嶽神社との間には何らかの関係があるように思えるのですが、そのように言ったとしても皇別氏族の多く(三分の一)が孝元天皇を出自としていることから、直ちに意味があるようには聞こえないでしょう。

 戦後、欠史八代を声高に主張した通説派の学者も、平安時代に於いてさえ8代孝元から皇別氏族335氏族中108氏族が出自している事を知ると、架空とした天皇から実在する多くの神社関係者など有力氏族が存在することを納得できなくなり、勢いトーンダウンせざるを得なくなってしまうのです。

 「記」「紀」も各々バラバラで説明しにくいのですが、「四道将軍」として東西日本の統一に活躍したとした意富(オホ)、和邇、吉備、阿倍の四皇別氏族も神武と欠史八代から派生したのであり、いっそ「記」「紀」は全てでたらめだとでも言えば良いものを思うものです。

「四道将軍」として北陸を制圧したのが、大彦命(実は第9代開化の腹違いの兄)で、連動して東山道、東北南部を征服したのも大彦命の子である武渟川別(?)であり、実はその武渟川別から東北の阿倍氏が出自しているのです。

また、前九年の役で敗れた安倍宗任が太宰府に流されるのですが(「平家物語」)、なぜか宗像氏の配下として筑前大島の統領となり、後の松浦党の一派を形成することになったという話があるのです。


前九年の役

奥州奥六郡岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)            「ウィキペディア」による

安東氏略史

安東氏については安倍貞任の第二子、高星から始まるとされる。父貞任が討たれた後、津軽に流浪し、高星の子の時代に藤崎(青森県南津軽郡藤崎町)を本拠としたという。(一方鎌倉時代、得宗領だった藤崎の地に北条氏の代官として入った「身内人」の一族ではないかという説も出ている。『保暦間記』によれば「安東五郎ト云者。東夷ノ堅メニ義時ガ代官トソ」との記述があるという。) 
 鎌倉末期に安東氏は一族で争い(津軽大乱)、本拠に残った「上国安東家」と十三湊(とさみなと、北津軽郡市浦町)に拠った「下国安東家」に分裂した。上国安東家のその後は不明である。さらに下国安東家は「(土崎)湊安東家」(秋田市)と「十三湊安東家」に別れる。「十三湊安東家」は南部氏の攻撃により一時蝦夷地に逃れ、(このとき逃れた安東政季の弟が下国家政で「下之国之守護」に任じられたとされる。)本州に戻ったのち、十三湊から檜山(秋田県能代市)に本拠を移し「檜山安東家」となる。この「檜山」「湊」両安東氏が室町時代から並立していくことになり、「檜山」は「安東太郎」、「湊」が「安東二郎」を代々名乗るのである。 戦国時代に入り、両安東氏は互いに争うが、「湊」の家系が絶え、愛季の弟である茂季が養子に入ることで実質的に「檜山」の安東愛季が「湊」「檜山」両安東家を併せ、安東氏(のちの秋田氏)が統一される。しかし、天正十五年(1587)、愛季が死んで幼い実季が跡を継ぐと、天正十六年末頃より、それに乗じて茂季の子である湊(安東)道季が湊氏の独立を画策して戸沢氏など近隣諸豪族と結んで反乱を起こした。この乱は翌十七年に至って大規模な争乱に発展し、実季は一時、男鹿の脇本城でなく守りの堅い檜山安東氏の本拠、檜山古城に退かざるを得ないなど、苦境に陥った。しかし実季側への由利衆らの加勢もあって湊氏の諸勢力を駆逐し、秋田周辺の領域や安東家一族を完全に掌中に収めるに至り、湊安東家の檜山安東家への吸収、安東家の統一を実現した。
 しかし、この合戦は豊臣秀吉から「私戦」と見なされ、その弁明のために実季は上洛し秀吉に臣従、領知を安堵されて豊臣大名としての一歩を踏み出した。豊臣政権下では秋田地方の太閤蔵入地の代官に任命され、また朝鮮出兵のための安宅船や伏見作事用の材木を運送するなどの役目を担った。天正十九年(1591)ころより、安東実季は「秋田」姓を名乗り、一族にも「秋田」姓の下賜を行っている。
 その後、秋田氏は関ヶ原合戦後の慶長七年(1602)には佐竹氏処分の余波を受けて常陸宍戸への転封を命じられた。そのため、秋田氏一族は「秋田」姓を廃し、先祖である安日(あび)が破れはしたが神武天皇の東征に対して生駒嶽で戦った、という伝承にちなんで「伊駒」姓を名乗った。(のち「秋田」姓に復姓)その後、実季は寛永七年(1630)に伊勢国朝熊へ閉門を命じられた。実季の子、俊季は正保二年(1645)に陸奥三春に移封され、幕末に至った。

「武将列伝」による



無題.png十年ほど前から松浦党の主要な一派が阿部氏であったことには気付いていましたが、宮地嶽神社の宮司家が阿部(阿部氏は現櫛田神社宮司)であった事にまで思い至ると、故百嶋由一郎氏が言われていた「宮地嶽神社の元の宮司である阿部さんは開化天皇の御一族…」(ただ大彦命の一族は民族が異なる腹違い)云々の話が真実味を帯びて実感され、一気に古代までフラッシュ・バックするに至った事がありました。

半信半疑ながらも近畿大和朝廷の業績として扱われている「四道将軍」ですが(通説派は第10代贈)崇神天皇さえ疑っているのですから…)、この「四道将軍」も当然ながら九州王朝が派遣した国家統一作業の一環であり、それに強く関わったのが第8代孝元天皇の長子大彦命(第9代開化の腹違いの兄)とその子武渟川別であり、その武渟川別が東北の安倍氏になったのであろうと考えています。

そして、その安倍氏が亡ぼされ、帰順した安倍宗任を九州の安定のために大和朝廷が利用しようとしたのが阿部氏であり、現首相の安倍晋三にも繋がっていると考えているのです。

やっかみ半分の安本美典により不当に中傷された「東日流外三郡誌」問題でしたが、安倍首相の御母堂が「東日流外三郡誌」の和田家に弔問に訪れたとの話を聴くと古代と現代は尚、通底していると感じるところです。

大和朝廷に帰順した東北の安倍氏が、何故、九州に送り込まれたかを改めて思えば、その出自が北部九州の一帯だったと言う事に尽きると考えるのです。

敵をもう一方の敵に向けるのは戦の定道である上に、戦を起こさずに治まるのならばそれを越える策はない訳であり、その四道将軍の末裔の帰還であったが故に、宗像、津屋崎、志賀も全て治まったと考えられるのです。

分かり易く言えば、現在の宮地嶽神社に投影されている神功皇后(現在、実際に祀られているのであり、それ自体は事実として受け容れますが)の継夫であり九州王朝の大王である第9代開化天皇の腹違いの兄である大彦命の長男が阿倍氏の祖となるのであり、三男の布都押優信(佐賀県武雄市の武雄神社主祭神)と山下影姫(佐賀県武雄市朝日町河上の黒尾神社主祭神)の間に生まれたのが武内宿禰(後の葛城一族)となるのです。

宮地嶽神社の元の宮司家である阿部氏も実は四道将軍として東北に送られた阿倍、安藤、安東の一族の帰還だったのであり、もしかしたら十三湊の安東氏も佐賀県唐津市湊から数えて十三番目の湊に展開した九州王朝の一族だったのかも知れません。

安倍宗任という名も、「大和朝廷帰順派として宗像を任せる…」と読めない事はないため多少は気にしていますが、大和朝廷徹底抗戦派であったと言われる安東氏も「アンドン」、「アントン」と読めることから、安曇磯羅の流れを汲むとする事ができるか?については「ひもろぎ逍遥」女史にお任せしたいと思います。


四道将軍

四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88?)にそれぞれ、北陸東海西道丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国丹後国但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ[1]、翌崇神天皇11年(紀元前87?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀の人物とされている。『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。

また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。                             「ウィキペディア」による

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:55| Comment(0) | 日記
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