太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年05月01日

069 宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!”

069 宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!

      20150215

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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既に、068 宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵”においてご紹介した様に、現在の宮地嶽神社の摂社無題.pngを含めた祭神に「安曇磯羅」は祀られていません。

勿論、この祭神息長足比売命 別名 神功皇后、勝村大神、勝頼大神)の勝村大神、勝頼大神の中に安曇磯羅が居れば話は変わってくるのであり単純に即断はできません。

ここでこのご配神がいつまで遡れるかを、まず、考えましょう。

数百年来、この通りだったと信じて疑わない方が大半かと思いますが、実は全く違うのです。

では、右のコピー・データからご覧いただきましょう。これは、昭和11年版「福岡県史」掲載の神社資料です。

これも故百嶋由一郎先生からお教え頂いたことですが、最低でも戦前の一時期、宮地嶽神社の祭神は阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)、藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神とされており、主祭神 神功皇后 以下…)でなかった事は分かります。

藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神が現在の勝村大神、勝頼大神であることは確実でしょうから、問題は阿部相凾が誰なのかに立ち至ります

この分析には、まず、「福岡県史」において、いかなる補足資料が確認でき、その配神が何時から何時までのどのような背景において総であったのかを確認する作業が必要とされます。

現在、空襲にも関わらず、「福岡県史」全資料は閲覧できますので、昭和11版にこの通り書かれているかどうかについて知りたい方はご自分で確認して頂きたいと思います。

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福岡県史編纂史料は、これまで(財)西日本文化協会が設置した福岡県地域史研究所において、福岡県の委託により調査・収集・整理・補修・保存作業ならびに公開を行ってきました。 これまでに収集された史料は10万点を超え、原文書のほか、多数のマイクロフィルム、地図、写真、絵ハガキなどが保存され、閲覧に供されていたところです。
九州歴史資料館では、これら福岡県史編纂史料を、福岡県地域史研究所からすべて移管を受け、閲覧およびレファレンス業務を引き継ぐこととなりました。
 当館では、調査研究を目的とする方々に所蔵する史料等を閲覧に供していますので、ご利用ください。


ただ、故百嶋先生は、正確ではありませんが、記憶では“現在の宮地嶽神社の祭神は神功皇后とその家来(臣下)とされていますが、冗談じゃない、そのお子さんです…”と言われていたようです(音声データあり)。

もし、現在の神功皇后、勝村大神、勝頼大神が母と二子であるとすれば、阿部相凾とは父となる可能性が高いことになると考えられます。これについても、故百嶋先生は話しておられました。

 以下、牛島稔太氏のHP神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜 ---

久留米地名研究会  百嶋由一郎先生講演  201125日 から、

開化天 皇、高良大社と宮地嶽神社は同じですが、超極秘事項で一緒にできない。みやま市山川町の役場からあまり遠くない小高い山の上に、山に鎮座まします神とし て、高良大社の高良玉垂命と向こうの開化天皇が鎮座されています。表に玉垂宮、中に宮地嶽と書いてある何か変な神社がある。これを実現させたのが菅原道真 公です。開化天皇のことをある時期、あへのしょうじょう、藤大臣とも申し上げた。また、“わかやまとねこ”とも申し上げる。ヤ マトネコは日本の根本となる人という意味です。ネコ、猫で九州各地に広範囲に鎮座されている。大阪では高良大社ではなく高良神社がありますが、久留米の王 子宮では動乱蜂、動乱花火をやるが大阪の高良神社でもやる。また、名古屋のとなりの尾張津嶋神社(祭神:素戔鳴のみこと、開化天皇のご先祖の一人)でもや る。この三つの神社ではやけのやんぱち花火をやる。春日大社は現在、偉い神社になっているが、高良大社にお仕えした家来の地位だった。高良大社を別のとこ ろに持ってゆくと無題.png住吉神社となります。

伊勢皇大神宮の神紋に気ずかれたかたはいますか?門光です。開化天 皇が四王子山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。現在では、花菱といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。門光以前 の紋章は桐です。男は五七、女は五三の桐です。まだ日本が定まっていなかった頃は、九七があった。神武後継五瀬のみことが働いていた頃は九七の桐もあった のです。但し、十六葉菊は後鳥羽上皇が追加されたものです。従って、天皇家の紋章は、桐、門光(花菱)の二つです。宮地嶽さんは高良と同一神を祀っている ことを隠すために、紋章切替をなさっている。三階松です、江差追分の江差町、牛深天草ハイヤの連中は船で全国を廻っていた。九州の王朝の行事を日本国中広 めていた。…


と、一気に凄い話に突き進んでしまいましたが、現在は検証作業を進めているだけであり、私にとっても永遠に続く作業仮説でしかないからです。

このため、直ぐに他人でしかない私の主張を信じ込まないで自分の頭で考え、調べるようにして下さい。

何故ならば「何を言っているんだ!神功皇后は第10代仲哀天皇様のお妃であられ、そのお子さんが応神天皇=八幡大神様となっているではないか!」といった話(現在、言えば嘘話)が巷に溢れているからです。

「日本書紀」「神功皇后紀」をお読みの方は、第10代仲哀天皇は短命だったことをご存じだと思います。でも、双子でなかったとしたら、神功皇后の夫とは誰の事でしょうか。

一人だけそれらしき人物が近くにおられるのです。

それは、久留米の高良大社の祭神である高良玉垂命(底筒男ノ命)その人なのです。「高良玉垂宮神秘書」の一部ですが、右をお読みください。

特に「古事記」「日本書紀」と全く違う異端の書「高良玉垂宮神秘書」もそのまま真に受けることはできない。

特にウガヤフキアエズの一族の影響からウガヤの業績を殊更大きく描いている部分があるとされていますが、深く読み込まなければ非常に難しく直ぐには理解できないのです。

特にフィールド・ワークを繰り返し、神社や神社伝承に詳しくならなければ見えてこないため、この段階では、記紀神話をそのまま信じ込み、判断どころか断定される方々に対して、警鐘の意味でご紹介したつもりです。

ただ、勝村大神、勝頼大神が神功皇后のお子さんだったとしても、実子であったのかどうかは、まだ、直ぐに結論を出せずにいます。

故百嶋先生は神功皇后と高良玉垂命(第9代開化天皇)には九人のお子さんがおられ(久留米市山川町高良皇子神社)、そのうち五人が皇后と開化天皇との間の実子であるといった趣旨の事を話しておられましたが、

九人の皇子(九躰皇子)斯礼賀志命(シレカシ)朝日豊盛命(アサヒトヨモリ)暮日豊盛命(ユウヒトヨモリ)渕志命(フチシ)渓上命(タニガミ)那男美命(ナオミ)坂本命(サカモト)安志奇命(アシキ)安楽應寳秘命(アラヲホヒメ)※読みは「草壁氏系図(松延本)」による。

朝日豊盛命、暮日豊盛命が勝村大神、勝頼大神であれば分かりやすいのですが。なお、那男美命以下四皇子は仲哀の子と「宮神秘書」にあり(15p)。

可能姓は低いもの勝村勝頼は仲哀の子かも知れない(これは当面保留)。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:10| Comment(0) | 日記
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