太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年04月18日

066 少彦名命とは何か?

066 少彦名命とは何か?

      20150212

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載


久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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「少彦名命」は小さな神というその変わったキャラクターから親しまれ(意図的に神話化されオモチャにされ)ていますが、当然にも大国主を助けていつの間にか消えていくという謎の神でもあります。

また、少彦名命が大巳貴(大国主命)と対比され、「大きい神様と小さい神様といった分かりやすい形でシンボライズ化されている…」などと説明されその手の話が大手を振ってまかり通っています。


少彦名命 すくなひこなのみこと

別名:少名毘古那/宿奈毘古那:すくなひこな 須久那美迦微:すくなみかみ 須久奈比古:すくなひこ少名日子根/小比古尼:すくなひこね 小彦/小日子:すくなひこ 小名牟遅神:すくなむちのかみ 久斯神:くしのかみ 少名彦命:すくなひこのみこと……

       大国主命と共に国土経営をした、小さな神。神産巣日神あるいは高御産巣日神の御子神。

       大国主命が出雲の美保崎におられたとき、天之羅摩(かがみ)船に乗り、蛾の皮の衣服を着て近づいてきた小さな神。

       久延毘古(案 山子)に「神産巣日神の御子少名毘古那神である」と聞いた大国主神が、 神産巣日神にこの旨申し上げると、神は「これは確かにわが子だ。私の手の俣より落ちこぼれた子である。 あなたと兄弟の契りを結んで国を作り堅めよ」と言われたので、 二人でこの国を経営した、その後少名毘古那神は常世の国へ渡られてしまう。

        大己貴神(大国主神)が、ミソサザイの羽を着た小さな神を掌中でもてあそんだところ、 跳んできて大己貴神の頬に噛みついた。そこで、高御産巣日神に申し出ると、 神は「自分の子の一人だが、いたずら者で、指の間からこぼれ落ちたものだ」と言われた。

       『出雲国風土記』では、大国主神と共に天下をめぐり稲種をもたらした穀霊として表わされている。

       『伊予風土記逸文』では、大穴持命(大国主神)が病に伏したとき、少彦名神が癒そうとして、 大分の速見湯を下樋から持ってきて浴みさせると、やがて回復した。これが伊予湯郡の温泉(道後温泉)の源である。

        大国主・少彦名の二神を温泉神とする信仰は、広く崇められており、 また、医療や禁厭の法の制定者でもあり、 さらにまた神功皇后の大神神社での酒の神としての御歌もあり酒の神としての信仰も強い。 久斯神とは、酒の神の意味。

        大国主の大と少彦名の小との関係は陰陽にも通ずる。

        小さ子神は、後世の倭姫命の小虫生成説や一寸法師などの説話の祖型ともみられる。

敬愛するHP「玄松子」より


しかし、これについても、百嶋先生は明解でした。ただ、九州のフィールド・ワークを徹底しないと分からないかも知れません。ここで、先生が語られた話の断片をご紹介しましょう。

非常に簡略してお伝えすれば、“大国主命を出雲の神様と思っている人が非常に多い”“宗像大社の本当の神様であり、隠されていますが、市杵島姫(瀛津嶋姫)の旦那さんだったんですよ…”

“少彦名命も名を外すと分かり易い。春日市の須久岡本遺跡の須久にいたんですよ…”と言われていたのです。

このことにお気づきの方がもしかしたらおられるかも知れないと検索すると、やはりおられました。

以下。

名前の由来考

少 彦名の命は「スクナビコナの命(みこと)」と読まれ、古事記は少名毘古那神、日本書紀は少彦名命、他に須久那美迦微、少日子根などと表記される。出雲系統 を代表する神々であるヤツカミズオミヅの命、スサノウ、大國主の命に続いて知られている。記紀の他、出雲国風土記、播磨国風土記、風土記逸文(尾張国、伊 豆国、伊予国)、古語拾遺、先代旧事本紀、文徳実録、逸文伊豆国、逸文伊予国、万葉集4首等に登場する。
  「スクナヒコ」の「スク」は「(昔)」ないしは「スクの国」の意味にとれ、「ナ」は「土地」を意味し、「ヒコ」は皇族の御子を意味する「彦」と読める。こ れによれば、「昔からのスクの国の皇子」を暗喩していることになる。「スクの国」とは如何なる国かと云う興味に発展する。大国主神の「大」に対する、「小 (少)」という対比で命名されていると読む読み方もある。

も う一つ、根拠はないが、「スク」と云う表記に注目すれば須玖遺跡の「スク」に繫がる。須玖遺跡は、福岡県春日市岡本町を中心にひろがる弥生時代遺跡群の一 つであり、牛頸山から福岡平野に突出した低丘陵地帯に多くの弥生遺跡が知られ、その丘陵の北端にある。遺跡の三方には広い平地が望まれ、丘陵上には墓地群 を中心とした遺跡が発見されている。1899年、台地上の巨石の下から合口甕棺(あわせぐちかめかん)墓 が発見され、前漢鏡約30面、ガラス璧(へき)、勾玉、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)など多数の副葬品が出土して注目されている。この地の国は 奴国が比定されている。してみれば、由緒正しき奴国の皇子で、大国主の命との共同による国造りを目指す為に参内した神と考えられるのではなかろうか。

少彦名命の神陵」より


「もう一つ、根拠はないが、…」とされている方が正しいのです。

オオナビコ(大国主命の幼名)を祀る神社が須久岡本遺跡にも遠くない春日市伯玄町2丁目24の春日市商工会敷地内  092-581-1407カーナビ検索にあることについては、既に「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 024 大国主は九州で生まれたオオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社」  

に書いていますので参考にして下さい。

 大国主命も少彦名命も実際に福岡周辺で活動していたのです。

間違っても、出雲神話の舞台を島根県だったなどと考えてはならないのです。

 大きな社を建ててもらう事を条件に国譲りをしたのは九州の一部であり、移動先、転居先こそが現出雲だったのです。

同様に、少彦名命については「玄松子」氏も「日本書記」から引用されている「須久奈比古」=須久の彦で良いのです。


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重要で大きな古代史の舞台であった須久岡本遺跡も今は住宅地の空地として静かな佇まいを見せています


ここで、少彦名命について確認するために「ひぼろぎ逍遥」176天穂日命(アメノホヒノミコト)とは掲載した百嶋最終講演資料の図を、再度、見て下さい。少彦名命は、客人(マロウド)権現=ウマシアシカビヒコチの傍に立たれています。

百嶋先生の資料を見ると小彦名命がウマシアシカビヒコチと重なり見にくいのですが、もちろん別神と考えて下さい。先生も小彦名命は掴みどころがなく年齢不詳とされていたようです。


現在、出雲大社の最上階、「客人(マロウド)の間」に秘かに匿われている神こそ、実は金海伽耶の金越智=ウマシアシカビヒコチなのです。

 このウマシアシカビヒコチは朝鮮人(実は朝鮮半島に亡命したトルコ系匈奴の王)として隠されたのですが、実は天御中主(白山姫)久留米水天宮様の夫であり(実のところ日本人扱いされている「天御中主」も雲南省から列島に避退したヘブライ系ペイホー族なのですから両方とも渡来神なのですが)、同時に、大山祇=月読命の父親でもあるのです。

 そして現に春日市に若き大国主=オオヤビコ(幼名)を祀る白玄社があり、小彦名命=須久ノ彦が実際に居たのです。

してみると、何のことはない、出雲大社のある出雲とは国譲りを行って移動した先であり、只のテーマ・パークだったのです。

ここまで踏み込んで良かったかどうか自信はないのですが、今は、なぜ、藤原不比等の「古事記」が、ここまでして嘘を設える必要があったのかを考えているところです。

単に、九州が国譲りの場所だった事を隠したかっただけならば非常に分かりやすいのですが…。


※画像クリックで全体表示されます

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上は20131月宮地嶽神社で予定されていた 百嶋由一郎 新春神社考古学研究会用に準備されていた講演資料の一部、先生はこの講演を行うことなく11日に他界されました。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:12| Comment(0) | 日記
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