太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年04月01日

060 オレオレデライタオ 

060 オレオレデライタオ 


「ひぼろぎ逍遥」、ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載       20150123

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県八代市の球磨川河畔に河童渡来の碑があります。


河童渡来の碑無題.png

地図

航空写真

45°


ラベル

八代城跡の南約500m、前川橋のたもとに石碑があります。

「河童渡来之碑」と刻まれた碑文によると、仁徳天皇時代(313399)に中国から九千匹の河童が揚子江(長江)を下り、黄海を経て八代に上陸したとあります。
<問合せ>市文化まちづくり課 TEL(0965)33-4533
<所在地>八代市本町2丁目

掲載課:観光振興課( 0965-33-4115 )
E-mail:kanko@city.yatsushiro.lg.jp


この碑文にはある「オレオレデーライタオ」という呪文のような一文が書かれています。
 長い間、意味は不明とされてきたのですが、1988年全国の河童共和国の先駆けとして八代共和国が設立されるに際して中国通の人が「呉人呉人的来多」(呉の人たちが大勢で訪れた)と訳して謎を解き明かしたとされています。

この河童共和国は民俗学者の故谷川健一氏と旧制第五高等学校時代同期生だった医師の福田先生や現河童共和国大統領の田辺達也氏などが中心となって設立されたものでしたが、地名研究会設立以前(八年前)から田辺達也氏とは親交があり、非公式ですが八代の河童共和国大統領の特別補佐官を任命されたりしていました。

勿論、「共和国は共和制ですから大統領制とは相容れず、大統領補佐官とはおかしな話ですね…」として半ば応諾して私設補佐官なら良いでしょうなどとしていましたが、民俗学の仲間としては一部重なる部分もあり、田辺先生には何度も同行して頂いたり、自ら随行したことも多々ありました。

田辺さんは五年ほど前に福田先生の後を継ぎ大統領になられましたが、地元八代市で大きな出版社を経営されておられ、何冊も本を出されておられましたが、民俗学を中心に多くの文章を書かれておられましたので、ホームページを作られてはいかがでしょうと申上げていました。

これについては数年前に実現したようで、その中に、百嶋由一郎先生との話が出ており驚いたことがありました。

一部ですが、その部分をご紹介致します。

 

月別アーカイブ: 19928

河童文化勲章とオレオレデライタ」            投稿日:1992/08/24作成者:カッパ広報

田辺達也

…(前略)…

 私にとって河童の世界は畑違いの未知の分野であった。でも私なりの自負それに好奇心も手伝い、何時になくハッスルしていた。八代市史と世界史、民俗学の論考と全国の河童伝承・河童が主役の小説・随筆など片っ端から読みあさり、河童による全国の町おこし事情や河童族の分布も短期間に把握した。この成果は一九八七年発表のいくつかの論考や、建国議会における私の経過報告などに明確で第1回河童サミットの組織方針にも生かされている。

 でも河童渡来伝説の謎解きになると実力の差は歴然で、たとえ文化勲章受章者と威張ったところで吉嶋さんには足下にも及ばない。「オレオレ……」の解明で指導的役割を果たした功労者はやはり何と言っても河童共和国文化庁長官の吉嶋華仙氏である。氏は北京大学に留学したあと主に黄河流域で長期間活躍された本物の中国通、風貌物腰からもさながら九千坊の生れ変わり。私の中国に関する知識も大部分は吉嶋さん譲りだ。

「オレオレデライタ」については、私は狩猟した書籍の中からただ一つ、熊本商大の牛島教授が『肥後の民話』(第一法規)に書かれた「呉の国からたくさん来られたの意味といわれる」に注目した。しかし語源との関連が不明なため、このことを建国準備委員会に報告し吉嶋氏に指導と解明を請うたのである。

 それから間もなく吉嶋氏の卓見「呉人呉人的来多=呉の人が大勢やって来た」とそれを裏づける論文が発表された。これは古代史を彩る日中交流の視点からも市民の共感を呼び、やがてこの地に定着することになる。丸山民俗学の後継者である牛島教授の説明とも一致している。この五年間、吉嶋説を否定する際立った主張もないから、日本でもほぼ受け入れられたと見るべきであろう。

 八代の河童伝説を解く鍵は何となくこの「オレオレ……」付近にもある、とする我われの目星はズバリ当たっており、今にして賢明であった。だから八代市民にとっても吉嶋賞創設の意義は尚さら深いと思う。

…(中略)…

在福岡の中国史家・百嶋由一郎氏の手紙によると、これは中国北方語で「俺俺来到=自分たちの統率者がやってきた」と説明されている。「河童族はもともと内蒙古を拠点にした騎馬民族系契丹族の穏健派で、かって呉の孫権と魏の曹操が東北部に遠征したころ、争いを嫌って共に南下し黄河あたりに移住。四世紀のはじめ頃、上海や寧波あたりから八代に渡来したのだろう」と書かれている。…


と、この内容も極めて具体的で驚かされますが、当方としては少し釈然としない思いが残っています。

と、言うのは、私自身は、この河童渡来をもっと古い時代のものと考えていたからです。

 つまり、“倭人は呉の太伯の後裔”とする考え方で、この呉は三国志の呉ではなく、臥薪嘗胆、呉越同舟の呉であり、紀元前五世紀まで遡るものであるはずだからです。

 事実、百嶋先生に「八代の河童共和国は呉を三国志の呉と考えているようですよ…」と話したところ、「それは間違いですね…」と当方に同意された事があったからでした。

 最早、確認の仕様はないのですが、その時、百嶋先生は“呉の太伯の話に限定して”同意されていたのを私が鵜呑みにしてしまっていたからだったのかも知れません。

 私自身は、八代の徳佛港への河童渡来を呉の太伯王の一族への随行と思い込んでいたからだったのかも知れません。

 勿論、その時代も列島に蘇洲辺りから入っていたでしょうし、呉が越に亡ぼされ、越は楚に亡ぼされ、楚も秦の圧力の中で自滅し、その後も政情の変化のたびに何波、何十波にも亘り列島への移動が繰り返されたのだと思います。

 河童族の事については、百嶋先生が一度触れられていた記憶を持っていますが、今回の内蒙古を拠点にした騎馬民族系契丹族の穏健派”の列島渡来の話は初めて知った事でした。

 既に、百嶋先生からは王昭君の一族が筑後の浮羽周辺に大量に入って来ているという話はされていましたので、唐突な印象は全くありませんが、八代の河童=九千坊が筑後川流域(浮羽、田主丸一帯)に入って来ているという河童北上の話が、今回の話と重なるため、河童族と王昭君の一族との関係が気になっています。

 ただでさえ、百嶋先生の話はスケールが大き過ぎで、着いていけないとの感覚をお持ちの方が多いうえに、「河童渡来」の話を持ち出すとなると、酷い反応が容易に予測されるため避けたい話ではあったのですが、一応、王昭君はトルコ系ともされる匈奴の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の一族に紀元前一世紀に送り込まれているのであって(百嶋先生も匈奴が壊滅に追い込まれた時期に、王昭君の一族と呼韓邪の一族との混血集団の渡来の話をされていました)、八代の河童渡来が三世紀の話とすれば数百年の差があり無関係とは言えるのですが、八代から浮羽への河童族の移動の伝承が三世紀と重なればない話でもないとまでは言えそうです。

 これについては、誤解の上に誤解を重ねる可能性がある事から、河童絡みの話には積極的に関わろうとは思っていません。

 飽くまでも、聞き流す程度にしておいて頂きたいと思っています。


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「三夜様」の愛称で知られる久留米市田主丸町の月読神社


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

いずれも一口で言えば朝鮮人兼日本人、日本にも土地を持っていた。当時は日本に拠点を置いて朝鮮半島に土地を持っている、逆に、朝鮮半島に拠点を置いて日本にも土地を持っている。このような例が非常に多かった。そしてこのような中で、歴史的価値がある…


牛島稔太のHPから「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」

--- もう一つの神々の系譜 ---から

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:41| Comment(0) | 日記
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