太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年03月26日

058 豊後は日田の大社 大原八幡宮も元は高良玉垂命を祀る神宮だったのか!“2015新春日田三社詣りトレッキングより”

058 豊後は日田の大社 大原八幡宮も元は高良玉垂命を祀る神宮だったのか!

2015新春日田三社詣りトレッキングより”


「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載       20150124

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


太宰府地名研究会主催で新春日田三社詣りトレッキングを行いましたが、日田の玉垂宮を見た後、日田の官庁街の中枢部にある大原八幡宮に廻りました。豊後の一の宮に劣らぬ実に立派な神社です。 

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豊後と言えば、昨年ようやく訪問した北の柞原八幡宮、南の西寒多八幡宮の二社(この両社が豊後の一宮)が頭に浮かびますが、我々にとっては、筑後東隣の日田の大原八幡宮が実質的な一宮のイメージとなります。今回、玉垂宮から大原へと巡った理由は、「大原八幡宮」も元は高良玉垂命を祀っていたのではないかということにありました(この神社の鎮座地日田市田島も宗像大社=本来の神は大国主命 の大字田島から付されたものですね)。

現在、西の総社日田の大原八幡宮は誉田別命(ホンダワケノミコト)、大帯姫命(オオタラシヒメノミコト)比売大神(ヒメオオカミ)を祀っています。 

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ここも宇佐神宮と同様に比売大神を三女神としていますが、九州年号の「白鳳」も銘記されています。


今回も学者の権威を認めたくないため、学者が馬鹿にする「ウィキペディア」を敢えて引用させて頂きます。学者の嘘より素人の真面目な研究を採用させて頂きます。


日田の八幡神社の初見は天武天皇白鳳9年(680靱負郷岩松峰(日田市天瀬町金場の北)に宇佐の鷹の居の社にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍形尾の宮)を建てて祀ったことが初めである。慶雲元年(704)、杉原のの下に神が降りて村の女に神懸かり、「岩松の峰の神」を名乗って「杉原が便宜よいのでここにきた」と告げたとして、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)若しくは仁寿2年(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原宮から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎え社司としている。建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわれる。


「杉原宮から現在の元宮に遷座され」の元宮が何かは奇妙ですが今後の課題としておきます。

宇佐の鷹居社も太宰府地名研究会のトレッキングで訪問しましたが、豊後では早くも七〜八世紀の変わり目に高良の神に替わり応神が出張って来ているようです(古田武彦が言う701年に九州王朝が消える…)。

一方、「高良玉垂宮神秘書」にも天平勝宝元年(749750)前後に「九州の宗廟を八幡に譲る」(104p)と書かれています。

全体としては八世紀半ばに高良大社(実際は高良玉垂神宮)は、国家的祭祀権を宇佐神宮に奪われたようですが、豊後に於いては半世紀早く高良と宇佐八幡が入れ替わりの動きが始まったようです。

 個人的には四度目の参拝でしたが、トレッキング参加の皆さんに“この大原八幡宮にも「高良玉垂神宮」としての痕跡が残されている事”を確認してもらうのが最大の目的でした。

 では、物証としての痕跡を見て頂きましょう。 

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まずは、参拝殿正面最上部に打たれた五七の桐の神紋です。

 本殿最上部にも同様の神紋が十六葉菊(これは後鳥羽が定めたものですが…)と共に打たれています。

 これは、何度も言う様ですが、高良玉垂命(第9代開化天皇)の神紋です。

 以前の文書をお読み出ない場合は、「ひぼろぎ逍遥」 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”他をお読みください。

無題.png では、その妃である神功皇后の神紋はというと、表参道階段脇に置かれた数個の灯篭に三五の桐紋が打たれています(十六葉菊が削られてもいるようですが…)。

 蛇足になりますが、本殿上には非常に珍しい日田大原八幡宮特有の剣(鬼)洲浜紋がありました。

これは、メンバーから教えて頂いたものですが、大蔵氏=財津庶家(実はその方のご関係)のもので、これを使う一族は高良玉垂命の臣下であった表筒男命(安曇磯羅)の流れを汲む紀氏(?)なのです。

大蔵氏

東漢氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする。姓は直のち忌寸・宿禰・朝臣。大蔵氏の名は大蔵に仕えたことに由来するが、東漢氏の祖・阿智使主が播磨国明石郡大蔵谷に館を構えたことに由来

由するとの説もある[要出典][2]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F
大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。
また幕末の尊皇攘夷の志士で福岡藩士の平野国臣(大蔵種徳)は、春実の三男種季の子孫という。
秦氏の内で大蔵の出納を務めた者が大蔵を称した。雄略朝において初めて大蔵官員を設置し、秦酒を以て長官としたという[5]。氏姓は大蔵秦公のち秦大蔵造。
後漢の王の阿多倍の直接の子孫 は坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿倍氏、です。 坂上氏は坂上田村麻呂として有名  ...
http://www.aoki.cc/cgi-bin/upbbs/upbbs.cgi?bbs=upbbs&page=1&num=377&view=1


「世界史掲示板(荊の紀氏)」より



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境内社も大山祇、大国主、住吉三神、松尾様=大山咋、稲荷(豊受大神)様と九州王朝の臣下が揃踏みです。

大山祇も大国主も?と思われるかも知れませんが、「記」「紀」神話に騙されてはいけません。

いずれも九州王朝の臣下なのです。

無題.png最後に、大原八幡宮の参拝殿の神額を見て頂きましょう。

「八幡宮」の書体が少し変わっていますね。これは鳥文字と言われるもので、菅原道実候の一族の影響下にあるもので、鷽替え神事の鷽を模したものなのです(これが大幡主系なのか長脛彦系はまだ分かりません)。

日田市の東、九重町には菅原地区があり、太宰府で死んだとされる菅侯は、藤原の刺客を避けこの地に秘かに潜伏、隠棲し、地元の有力者の一族に道真侯の種を残しておられると聴いております(現在も末裔が…)。

その後、鹿児島の薩摩川内市の奥地に移動し、藤川天満宮付近で余世を全うされた様で、現地には多くの伝承が残されています。

これについても 「ひぼろぎ逍遥」019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! をお読みください。それと関連するかは不明ですが、この大原八幡宮の社家、もしくは有力氏子にこの菅原系(ナガスネヒコ系&ヤタガラス系)のどちらかの氏族が関係している事は間違いないでしょう。神額の鳥は六羽(?)は描かれているようですが分かりますか。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:18| Comment(0) | 日記
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