太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年03月11日

053 阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 B

053 阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 B

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院共通掲載

20150117

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png甲佐神社を云々する前に、まず、この「甲佐」という地名と神社名が気になります。

安佐、伊佐、宇佐、笠沙、佐々、志佐、土佐…とかなりの類型地名がある事から、地名語尾と見ることは可能です。

その前に、甲佐という地名が先行して成立し、甲佐神社が生まれたのか?それとも、甲佐神社が先行して存在し、その後その神社の名称から甲佐という地名が付されたのか?を解決する必要があるようです。

結論を急げば、甲佐神社から甲佐という地名が成立しているのです。普通は角川書店の「日本地名大辞典」などに頼るのですが、ネット上には「日本辞典」というサイトがあります。これがどの程度正しい事を書いているかはご自分でご判断ください。


甲佐 こうさまち【熊本】[甲佐]
「甲佐」は、中世以来の地名、南北朝期には見える益城郡「甲佐」。地名は、阿蘇本社領の末社領で、甲佐大明神を祀る甲佐神社が鎮座することに因む地名とされる。古くは「高佐」とも書き、神功皇后が甲冑を献納したことから「甲佐」と改めたとする伝承がある。鮎の名産地。


私達は百嶋神社考古学によって教育=洗脳されていますので、最近では少し理解できるようになってきました。

 ここでも2011528日の神社考古学研究会における百嶋先生の講演の音声ドキュメントの複製を、元菊池(川流域)地名研究会メンバーの「牛島稔太のHP」から…読んで頂きましょう。


そ もそも江上波夫さんの騎馬民族云々よりももっと早い時期に、「ツヌガのアラヒト」、福井県敦賀に鎮座してあるアラを統治しておられる人という意味です。ツ ヌガのアラヒトは贈祟神天皇です。祟神天皇及びそのお父さんである佐田大神、別のお名前、大山クイの神の場合はアラカシヒコ、即ち、アラに赴任しておられ たカシヒコ、船の梶取という意味です。大山クイのミコト、さっき申した佐田大神ですね。贈祟神天皇の福井県敦賀の「ツヌガアラヒト神社」は延喜式内社で す。そして、お父さんである佐田大神、即ち、大山クイのミコト、これは、能登半島七尾にお宮さんがあります。お宮さんには「アラカシヒコ」と書いてありま すが、更に、お宮さんの外には説明がありまして、「クマカブト」と説明があります。これは、クマとは熊本の隈です。カブトは熊本の甲佐の甲です。要する に、熊本の甲佐出身のアラを統治している船の梶取ということです。


さて、石川県鹿島郡中島町に 久麻加夫都阿良加志比古(クマカブトアラカシヒコ)神社があります。

この祭神こそ実は甲佐神社=国造神社の祭神の速瓶玉=大山咋命なのです。北部九州と同じ三タコ下がりの注連縄が九州との関係を感じさせます。


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「久麻加夫都阿良加志比古神社」画像はHP能登里山日記」を借用したもの

以下は敬愛する「玄松子」氏のサイトから


創祀年代は不詳。俗に熊甲宮、通称は、お熊甲とも称する神社。
本地仏は薬師如来だったらしいので、境内社・薬師社は、ようするに本社の分身なのだろう。
初め、祭神は西岸村瀬嵐に漂着され、後に熊木村上町高瀬の森に鎮座し、さらに現在地に遷座したという。
式内社・久麻加夫都阿良加志比古神社に比定されている古社。
祭神は、阿良加志比古神と
都努加阿羅斯止神一説には、阿良加志=阿羅斯止とされ、同一神とも。
ま た、熊木郷(熊来郷)の総社だがこれは高麗来、つまり高麗から渡来した神。あるいは高麗甲を被った、阿良加志比古神というのが社号の起こりだとも。前田氏 の崇敬が篤かった神社で、明治六年郷社に列した。当社の例祭は、前夜祭と慶賀祭を合わせた『熊甲祭』。枠旗祭とも呼ばれ、重要無形民俗文化財になってい る。神輿二十台が渡御するもので、境外の各末社十九社から練り歩いてくるらしい。 『熊甲祭』に神輿の渡御がある境外末社は以下の19社。
中島・白山社、深浦・白山社、長浦・加茂社、浜田・八幡社、谷内・白山社、
小牧・白山社、中島・熊野社、横見・八幡社、別所・白山社、瀬嵐・人麿社、
山戸田・本宮社、上町・市姫社、中島・菅原神社、中島・愛宕社、横田・八幡社、
外・加茂社、田岸・菅原神社、宮前・加茂社、外原・神明社。


久麻加夫都阿良加志比古神社の由緒


当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。
御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。
この神々は韓国の王族で阿良加志比古神については地神とも、三〜四世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。
都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」二年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名
都怒我阿羅斯等。』の記事があり、四〜六世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。
毎年九月二十日に行われます例祭は一名を『二十日祭り』とも言い、昭和五十六年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
祭 りは二十日のお旅所である加茂原までの渡御の順番を決めるクジ引きをする六日の「しらい」から始まり、十九日夕刻からの「奉幣迎え」、翌二十日早朝から氏 子十九の末社が本社に集まり境内へと「参入」する、定刻十時三十分に社務所から宮司、献幣使、神職、氏子総代が出発し「奉幣式」を行い、五穀豊穣・万国平 安を祈念する「祭典」を始めます。
高さ二十m余りの真紅の大枠旗三十数基と金色に輝く二十基の神輿。
華やかな色彩の鳥兜をかぶり、狩衣を着け、面棒を持った
猿田彦の乱舞や鉦・太鼓のリズムは華麗にして荘厳な中にも地方色極めて豊かな情趣をかもし出す美観は全国にも稀に見る祭礼であります。
摂 社の『薬師社』には藤原時代の作とされ作が極めて優秀であることから県の有形文化財に指定された「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」 が安置されており神仏混淆の名残をとどめています。境内にある校倉造りの『宝物殿』には弘法大師が能州遊行の砌、当社に寄進されたと伝えられる「紺紙金泥 法華経(こんしこんでいほけきょう)」が納められていました。     −『平成祭データ』−


今回は引用ばかりで恐縮ですが、問題は神社を見る鍵にあり、単にデータを積み重ねても、古文書を丹念に読み込んでも分からない場合があるのです。これだけでも甲佐神社の性格がお分りなったでしょう。  

しかし、肥後の方々に朝鮮半島の神が祀られているなどと言ってもにわかには理解して頂けないでしょう(排撃は覚悟)。百済の達率までなった葦北の君阿利斯登の子「日羅」の話がある県なのですが…。

 ただ、古代の最上国である肥後は、最大の先進地であり、半島から大陸からまた南方から多くの渡来神が入ってくる場所だったのです。肥後の神に土着の神、国ツ神など存在しないのです。

最後に、神功皇后が甲冑を献納した」という話も百嶋系譜では同時代であり可能性があると思います。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 02:39| Comment(0) | 日記
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