太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年02月23日

047 四国に高良神社を探る D “讃岐(香川)編”“三豊市菅生神社の境内摂社”

047 四国に高良神社を探る D “讃岐(香川)編”“三豊市菅生神社の境内摂社”

20150104
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

そろそろ陽も低くなってきました。距離は離れていませんが、次のHP暗号「山上憶良」氏のデータも、「高良神社 三豊市山本町財田西」と大字が示されているだけです。
当然ながらその範囲が広ければ容易には見つからない事になります。結果的にはその通りとなったのですが、まずは順調に見えました。
 観音寺市から東に5キロも走れば、そこは三豊市です。カーナビで山本町財田西の代表地点に着くと、それから先は手探りになります。郷土史家クラスの方でなければ、単に地元の方に「高良神社」と聴いて分かるとも思えません。
 ただ、神社の場合は集落に近い高台の社叢林を探すのが基本で、古いタイプの神社ほど広葉樹の杜を目標にします。
 しばらく走り廻っているとそれらしきものが目に入りました。カーナビの地図に直接プロットし、現地に向かうと、どうやら神社の背後地に出たようで、農業用の倉庫しかありません。
しかし、神社の方に通路が延びていました。神社は、後で正面に回る事になるため、始めから表参道から入る事が鉄則ですが、また道を誤ると厄介ですので裏口から失礼する事になりました。
本殿を見るとどうやら八幡宮らしく(菅生神社)、始めから境内の摂社を見せて頂きました。
案の定、藤棚のある社殿があり、一社三殿三神で中央に高良玉垂命が、左手には若宮様(恐らく仁徳天皇)が鎮座されていました。
その時は、これで高良神社を発見したと思い込んだのですが、九州に戻り調べると、実はもう一つの高良神社があったのです。

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菅生八幡宮

再び、香川県の神社と観光地「三豊市(旧豊中町)の神社」に従うと、

由緒
中古火災のため鎮齋の本縁を知り難きも、古来菅生八幡宮福生八幡宮と並称されて今に山本の両社八幡宮とも云う。
明治十二年以来菅生神社と申す。社伝に依るに、嘉禄二年二月十五日菅生大神を鎮齋し、天福元年八月十三日宇佐八幡大神を鎮齋して福生神社と申し奉ると。
又一説に、天福元年三月十五日古川村鎮座の八幡宮を奉齋して福生神社と申し奉るなりとも云う。
祠官は山本号の社家として真野氏世々奉仕し、神巫は古川村高橋氏相承せり。
仰々当社社史に多大の関係ありと思わるゝは、山城国八幡鎮座石清水八幡宮なり。
同宮は貞観元年宇佐八万神を鎮齋して、品陀和気尊、息長帯姫命、比賣神を祭神として神威崇く、其の神領は保元以後全国に及び讃岐国にても庄園其の他に密接の関係ありて、保元三年四月公験譲状、仁安三年四月官宣旨、元久三年十二月、嘉禎三年五月の両処分状等に山本荘の名見ゆ。
和名抄には、刈田郡山本郷池之尻、原、古川、辻、新田、中田井、河内の緒村有りて、菅生福生両者八幡宮を以て総鎮守として今日に及ぶ。
同抄に阿野郡九郷在りて山本郷は後西庄となる。すなわち西庄、池尻、福江、坂出、御供所の五村なるも石清水文書に云う山本荘の果たして何地なりしやは尚後考を要すべきも、其の本宗の神祇を庄園に奉齋して鎮守神とし、本末の関係を益々深からしめんとするは自然の理なれば当官も亦其の由縁に依るものならんかとも云う。
封建時代に入るや、高井氏代々敬事して其の後裔今に例大祭には奉幣奉供し、殿舎改築等には一族を挙げて報賽の至誠を至すこと昔時に変らない。

とあります。
品陀和気尊、息長帯姫命、比賣神は、違うことなく宇佐八幡宮のものですが、現在の宇佐神宮は比賣神を宗像三女神としている訳です。

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下左)高良神社 下右)若宮神社
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この菅生神社参拝道の左手に高良玉垂命、若宮様(恐らく仁徳)外一神を祀る神殿が置かれ、その正面、参拝道の右手に、神武天皇神社、帯神社(仲哀か?)、外一神なる仰々しい神殿が置かれていました。
恐らく、この神武天皇神社は初代神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、神武僭称第10代崇神(ハツクニシラススメラミコト)の方だと思われます。
第10代開化天皇(高良玉垂命)から飛んで飛んで、なぜ、第16代仁徳天皇がと思われるでしょうが、開化にとって仁徳は正当皇統の若宮であり直系の天皇(これが事実上最後の九州王朝の天皇)なのです。
第11〜15代も本当の天皇なんどではないのです。

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神武天皇神社

「その時は、これで高良神社を発見したと思い込んだのですが、九州に戻り調べると、実は、もう一つの高良神社があったのです。」と前述しました。
これも、香川県の神社と観光地「三豊市(旧豊中町)の神社」によるものですが、

•       高良神社
•       この神社は、菅生神社より歩いて12・3分程の処にあり、周りには特に目印もなく、小高い木に囲まれたところにある。 
•       拝殿と本殿
 画像はコピーできないため省略しネットでお見せします。
•       http://wanikawa.com/jinnjya/yamamoto/15koura/15koura.html

至って粗末な神社ですが、所在地 山本町辻(辻村字東側)祭神 武内宿匏命(匏はひょうたん) 天照皇大神 とあります。
これは、捷二号作戦 として徳島の三社を見る際に余裕があれば、再度、廻りたいと考えています。


捷号作戦

捷号作戦(しょうごうさくせん)は、太平洋戦争中に日本の大本営が立案した作戦計画の1つである。
マリアナ沖海戦に勝利を収めたアメリカ軍は1944年7月9日にサイパン島を占領し絶対国防圏を突破して、その内懐に対し次なる攻勢への動きを見せつつあった。日本本土とインドネシア周辺の資源地帯の間の拠点が占領される事は、本土への資源還送航路の停止を意味し、これは軍はもとより国家経済の壊滅に繋がる。加えて海軍にとっては艦船を動かすには大量の重油を必要とするため、残存する艦船がすべて行動不能になる恐れがあった。そのため連合艦隊の残存戦力、陸海軍の航空兵力、そして陸軍の地上兵力を投入し、来襲するアメリカ軍を迎え撃つことを骨子とする『陸海軍爾後ノ作戦指導大綱』を7月24日に裁可した。作戦の流れは、陸海の基地航空兵力によって敵艦隊を漸減、続いて第一機動艦隊により米機動部隊を牽制し、その間に戦艦を主力とする水上艦隊を来攻地点に突撃させ艦砲射撃によって輸送船団や上陸軍に打撃を与え、陸軍がこれを殲滅するという一大作戦であり、陸海軍の完全な一致協力を前提とした[1]。
7月26日、陸海軍の作戦の秘匿名は「捷号作戦」とされた。名称は「捷」の字が戦いに勝つという意味を持つことに基づいている。ただでさえ開きつつある戦力差に、南方兵力のほぼ全てを投じ貴重な空母を囮として使用したこの作戦は必勝を前提とした作戦であった[2]。
ウィキペディアによる

ただし、当方は「捷」に早い、素早いという意味があるため単に早い、速いという意味で捷二号作戦
という言葉(捷水路など)を使用したものです。
闘将 小沢冶三郎中将率いる第三艦隊(日本最後の空母艦隊)を率いて出動し、米空母機動部隊を米侵入艦隊から遠くへ引き離すようおびきだすのですが、裏で天皇家とユダヤが繋がっているようでは…。
この点、気になる方は歴史家の鬼塚英明氏の本でもお読みください。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:39| Comment(0) | 日記
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