太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年02月19日

046 四国に高良神社を探る C “讃岐(香川)編”“三豊市の古刹本山寺は高良神社の神宮寺だったか?”

046 四国に高良神社を探る C “讃岐(香川)編”“三豊市の古刹本山寺は高良神社の神宮寺だったか?”

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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


三豊市は観音寺市からさほど遠くはありません。次のポイントも、HP暗号「山上憶良」によるものですが、有難いことに、高良神社 香川県三豊市豊中町本山甲1448と、今回は地番までが特定されています。

現地に着くと、なんと、そこは神社ではなく巨大な五重塔が立つ大伽藍、まさに巨大寺院でした。


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讃岐の事ですから空海開山の真言寺と考えるのが定道でしょう。事実その通りで、年末にも関わらず参詣客は切れ目がありません。

後で調べると、大同2807)年、平城天皇勅願寺として空海開創したとあります。

道すがら多くの遍路さんを見掛けました。お遍路さんと寺女は同じように見えますが、実は全く掛け離れていると考えられているかも知れません。信仰心の有無がそれを別けるものとするのは単純過ぎるかも知れません。

勿論、神社を駆け巡る神社考古学の者に江戸落語風に言えば「神信心」などあるはずもなく、信仰心が無い事を詰る資格も気持ちもないことは言わずもがなでしょう。

話がそれましたが、地番が特定しているにも関わらず高良神社は一向に見当たりません。

途方に暮れ諦めかかりましたが、再び車に戻ってカーナビの縮尺を上げ付近を調べると、突如、高良神社の文字が目に入りました。

やはり、隣接して高良神社が存在していたのでした。広い寺院の裏に何の表示もない大きな神社が静かに息づいていました。鳥居はあるものの神額はなく。神社縁起も、摂社、境内社もありません。

カーナビで高良神社との表示がなければ、誰であろうと如何なる神が祀られているかは全く分からないはずです。唯一、本殿の屋根に左三巴の神紋が確認できるだけでした。


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              神額はありません    千木を見落とせば神社には見えませんね

これは、完全に蓋をされた高良神社であると言えるでしょう。

ただ、神社と寺院の配置からは、誰が見ても神社と神宮寺の関係であることは明らかで、高良神社の名が残されている以上、古刹本山寺は高良神社の神宮寺であったとしか言いようがないのです。

後は、郷土史関係の資料や神社庁関係の資料を見て、直接、宮司にお話を聴くべきでしょうが、機会があれば、再度、踏みたいと思うばかりです。


香川県の神社と観光地「三豊市(旧豊中町)の神社」というサイトがあります。ここには簡潔な説明がありましたので、ご紹介したいと思います。


高良神社は、四国霊場70番札所本山寺の隣に鎮座する神社。
随神門の所までは、アスファルト舗装がされていて、駐車場の中に鳥居がポツンと建っている、といった感じがする。(実際に、駐車場として使っているのだろう)
お遍路の団体でにぎやかな本山寺と違い、こちらはとても静かだった。
祭神:玉垂命

合祀祭神:建御名方命、大物主命、事代主命、倉稲魂命、大雀命
(一に曰 天照皇大神 埴安姫神 少彦名命 をも合祀す)
由緒(香川神社誌)
傳へ云ふ。定款十四年(紀元一五三二)當村の人田井式部なる者、筑後国一ノ宮高良山より勧請して此の地の氏神と奉齋す。
寺家、岡本、本大の三村は當社勧請當時は岡本村と稱し當社は右三ヶ村の總氏神たりと。
其の後歳月を経て衰頽せしが、宝暦十二年三ヶ村の緋と等よって再興せられたり。
此の棟札現存す。社領六石六斗ありて生駒分限帳に「六石六斗三野郡本山明神」と見ゆ。全讃史に「高良大明神在 本大村 寺家岡本本大三村之社也 祭田高六石六斗祠林四段一畝」とあり。
西讃府誌に「高良大明神 祭神武内大臣 祭禮八月十七日 社地四段四畝 神田六石六斗」と見ゆ。
明治四年随神門屋根替、同二十年幣殿、拝殿及び神輿庫を再建、大正八年祭器庫を新築、昭和四年随神門を修繕、同八年神饌所を新築す。
明治五年六月村社に列せられ、大正七年五月十二日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
當社は地方の古社にして、明治三十六年及び大正十二年内務省技師関野博士の調査には、随神門獅子は鎌倉時代、本殿及び随神門は桃山時代の物にして特別保護建築物に準ずるべきものなりと伝へり。


祭神:玉垂命 合祀祭神:中略…大雀命

とあるようにここにも玉垂命と大雀命(仁徳天皇)=若宮がセットで祭祀されていることが分かります。

 やはり、この地でも九州王朝を消さざるを得ないなにがしかの事情があり、しかし、可能な限り残そうとした情念=無念のようなものを感じてしまいます。


「定款十四年(紀元一五三二)當村の人田井式部なる者、筑後国一ノ宮高良山より勧請して」については、そのまま受ける訳には行きませんが、時期が、藤原が力を失う戦国初期となると、元々あった神社を再興するために高良山に登ったと考えるべきではないかと考えるのですが、それには、田井式部を調べる必要があるでしょう。今後の課題です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:55| Comment(0) | 日記
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