太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年02月16日

045 四国に高良神社を探る B “讃岐(香川)編” “観音寺市琴弾八幡宮は高良神社だった”

045 四国に高良神社を探る B “讃岐(香川)編” “観音寺市琴弾八幡宮は高良神社だった”
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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


観音寺市の砂浜に書かれた巨大な銭形紋と言えば知らぬ人のないものですが、その風景を俯瞰するために設えられたとしか思えない場所に位置するのが琴弾八幡宮です(もちろん逆でしょうが)。
これまた、暗号「山上憶良」というサイトの高良神社リスト(香川県観音寺市八幡町1丁目1)を頼りに現地を踏むと、この琴弾八幡宮と重なってしまったのでした。
物見遊山の気持ちはないのですが、とにもかくにも、銭形を確認しようと数十メートルの丘陵頂上に上がると、背中に琴弾八幡宮が鎮座していたのです。

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銭形模様の確認もそこそこに、裏参道から境内に入ると早々にも本殿左に武内宿禰を祀る境内摂社が目に飛び込んできました。
そうなると、本殿よりも気になるのは右側に鎮座するはずの境内摂社です。それではと正面を回ると、まずは住吉神社が置かれていました。
祭神を見ると底土神、赤土神、石土神と書かれていますが、普通に考えれば、底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神の事でしょう。

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ただ、一般的にはこれを兄弟とか同族もしくは親子などと見る方が多いのですが、百嶋神社考古学では、順番に第9代開化天皇、第10代崇神天皇、安曇磯羅(アズミノイソラ)の事であり、親子でも血縁でもない残りは開化天皇の臣下と考えているのです。
その奥に鎮座していたのが若宮でした。この配置も想定内であり若宮は当然にも開化天皇の長男である第16代仁徳天皇と読んでいましたが案の定でした。問題は若宮に置かれた残りの宇治皇子、宇礼姫、久礼姫です。
宇治皇子=菟道雅子郎 (ウジノイラツコ)とすれば、仁徳との間に暗い話があるのですが、記紀を信頼できないものと考えている立場からはおいそれとその話には乗れないのです。
この辺りになると手に負えないのですが、どうやらここらに古代史の闇が隠されているような気がするのです。

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では、肝心の高良神社はどこにあるのでしょうか、表参道の階段をかなり下ると右手に摂社が数社置かれていました、同社のパンフレットにもこの神社は書かれていないため(禰宜にパンフレットには書かれていませんと釘を刺されました)摂社扱いもされていないのかもしれませんが、とにかくここでは正しくも武内宿禰とは別扱いで高良玉垂命と壱岐真根子命が並べられて鎮座されていました。

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壱岐真根子と言えば「日本書紀」では、武内宿禰を甘内宿禰の讒言による抹殺から救うために身代わりとなったとする忠義の臣下ですが、ここでは、奇妙にも高良玉垂命と並べられているのです。
これをどう読むかも頭を悩ませますが、現在、本殿に祀られている三神は、宇佐神宮の圧力により」応神天皇と玉依姫が入れられた結果、本来、高良玉垂命と妃である神功皇后、それに長子の仁徳であったものが、高良玉垂命と仁徳が左右の脇殿に移され、さらに高良玉垂命とは武内宿禰なりという通説(俗説)に沿い、武内宿禰と高良玉垂命=開化天皇が入れ替えられた結果、高良玉垂命は武内宿禰と壱岐真根子が並べられていた場所に貶められたと見るべきではないかと考えています。
このように考えれば全ては旨く説明が付くのですが、思考の暴走の誹りは甘受するつもりです。
しかし、「高良玉垂宮神秘書」の立場から考えればそのようにしか解釈できないのです。
ともあれ、この神社には、風神社として志那津彦(実は志那は支那の置き換えで、雲南省麗江から入ってきた阿蘇の草部吉見神)、志那津姫(宗像大社のタゴリヒメ「古事記」では多紀理毘売命、「日本書紀」では田心姫=アメノウズメ=辛国息長大姫大目命)…が祀られ、九州王朝のスターたちが揃い踏みといったところです。
百嶋神社考古学の立場から見れば、この八幡宮ほど頭隠して尻隠さずで、元々は九州王朝の神宮であったことが透けて見えるものでした。
最後にどうしてそんな事が言えるのかとお考えの向きがあるでしょうが、こう考えた決め手は本殿上の神紋でした。
普通の方には、物部風の派手な千木や鰹木ばかりが目に入るでしょうが、神紋は三五桐が打たれていたのでした。
勿論、宇佐に祭祀権を奪われる以前、つまり、八世紀以前は高良玉垂命の神紋である五七桐が打たれていたことでしょう。これは決してホンダワケ=応神天皇ごときの別王のものではないのです。
そもそも千木や鰹木は八幡神のものでもなく神殿も八幡宮様式でもないのです。
むしろ、必死で元の姿を多少とも残そうとされている証だったのかも知れません。
次は、それほど遠くない三豊市に向かいます。足早の調査ですが仕方がありません。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:17| Comment(0) | 日記
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