太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年02月05日

042 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”

042 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”

緊急「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院ダブル掲載版
201412026
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、「ひぼろぎ逍遥」055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する 20140327 において、旧瀬高町に鎮座する超高格式玉垂宮について書いています。
詳細を知りたい方には055の全文をお読み頂くとして、そこでは、概略このように書いていました。
(中略)
写真は九州王朝論者の間にも殆ど知られていない玉垂神社です。

無題.png辺りは一面の水田地帯でしかなく、森を探せば辿り付けますが、どうしてこのような所にこれほどの高格式の玉垂宮があるか大変不思議に思えます。
有明海沿岸道路に近接する大牟田市の黒崎の先端に玉垂宮があるように、古代にはこの地も有明海に突き出した岬だったのかも知れません。
非常に興味深いことにここに住む人のほとんど全てが物部氏を思わせる河野姓です。 
また、七支刀で著名な太神宮こうやの宮にも近く、正面には七世紀に起源を持つかと思わせる肥前鳥居が現存しています。皆さんも一度訪ね見られてはいかがでしょう?
「この神社こそ、玉垂宮の原型を今に留める高格式の玉垂宮であり、本当の祭神がそのまま残されている」と教えてくれたのは、例の故神社考古学者でした。
(中略)
 まず、このような場所に、なぜ、これほど多くの大きな社殿が立ち並んでいるのでしょうか、勿論、それは後世の事としても、山門(神社の場合は山門とは呼ばないでしょうが)屋根にも、本殿の屋根にも五七の桐、三五の桐が描かれています。
 ただならぬ神社であることは一目で分かりましたが、重要なのは神殿の御簾の中です。
 打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。
 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。
 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです。
 神功皇后は仲哀天皇の妃というのは正しいのですが、その期間は極めて短く、その後はずうっと死ぬまで添い遂げていると言うのがその理由で、その痕跡は、高良大社で販売(\10,000)されている「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)にあります。
 これこそが、日本の古代の最大の真相であり、記紀をそのままに信じられない理由なのです。詳しくは別稿としますが、ここでは、現場にはこういう歴史の宝物が落ちていることをお知らせするにとどめます。

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みやま市玉垂宮正面の肥前鳥居


さて、12月20〜21日に掛けて行った益城町トレッキングの帰路、多久市在住の神社研究者のA氏を同社にお連れしたところ、神殿に鎮座されているはずの神功皇后像がありませんでした。
当然にも神社側のご判断で保管のために移されたものと考えますが、その背後に、その筋(神社庁)の意図が透けて見えた思いがした瞬間でもありました。
当方もこの貴重な神社資料が散逸することを恐れ、後世に伝えるためにも重要と判断し、少しでも多くの方が参拝され多少とも神社の経営に寄与できるようにと考えた事から、そのまま保存される事を期待し、当時も御神映を公表することを控えていました。
しかし、このような事が起こる事になれば、非常に悲しい事ですが真実をお伝えする必要があるものと思慮いたします。
数年前の瀬高町トレッキング当時も、四十人近い多くの方が参拝され(お賽銭も入れられるように小呼び掛けもいたしました)確認されていましたが、その中の方からお借りしてお知らせしたいと思います。

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打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。
 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。
 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです。

と書いただけで、映像の公表は保留しておりましたが、お分かり頂けた事と思います。
「高良玉垂宮神秘書」の断片を掲載していますが、この記述を裏付ける言わば物証がこの瀬高玉垂宮なのです。ただ、一般的には、高良玉垂の命の妃は、「記」「紀」で仲哀天皇の妃で応神天皇の母親とされる神功皇后なのです。が仲哀死後、再婚し、五人の皇子を産んでおられるのです。
なお、五七の桐、三五の桐は、それぞれ高良玉垂命と神功皇后の神紋であり、一族としては、木瓜紋、住吉の神紋が使い分けられていたようです。
また、「高良玉垂宮神秘書」では、第八代孝元天皇の三男=月神=底筒男命が神功皇后の夫であり、表筒男命=大川風浪宮の安曇磯羅が神功皇后の妹である豊姫の夫となります。
この関係については、百嶋最終神代系譜と「高良玉垂宮神秘書」と間に一分食い違いが認められ、「高良玉垂宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の豊姫が宝満大祝と、もう一人が佐賀県の淀姫神社の大祝となったとされるのに対して、百嶋神社考古学では、安曇磯羅の妃がウガヤフキアエズの子である逆賊河上タケル(熊襲)の妃が豊姫(ユタヒメ)=淀姫とします。その理由は分かりませんが、今後も検討作業が必要でしょう。
いずれにせよ、この辺りに古代史の最大の謎、九州王朝の消滅、正当皇統の廃絶、新興勢力による歴史の改ざん、欠史八代問題、応神の系統による九州王朝隠しの理由が存在しているようです。
だからこそ、どのあたりからかは不明ですが、正しい歴史を消そうとする人々が存在している事だけは事実のようです。
どうやら、私達の探求は猛獣の尾を踏み始めたようです。逆に、真実の一端を垣間見た思いがします。
私達はこのような真実が隠される事自体に怒りは感じません。そうしなければ身の保身が叶わぬ人々を哀れとも情けないとも思うだけのことなのです。
真実を明らかにしなければ信頼を失うのは世の常であり、神社への尊崇の念は益々潰え去る事になるでしょう。
百嶋翁からお聴きして手探りで始めた神社調査でしたが、私達の調査の方向が正しい事を逆に証明された思いがしています。
現在、牛島稔太氏のHPや当方のブログなどを経由して本当の神代、従って真実の歴史を知りたいと考えられている方々から直接お話しを聴きたいとの問い合わせが急増えしています。
若い方から年配の方までかなりハイ・レベルの質問をお受けしています。
当方は、知り得ているものから抑制し配慮して公開していましたが、真実を捻じ曲げようとされる方々妨害には対抗せざるを得ません。全国から寄せられる熱心な神社研究者には手持ち資料をお渡しし資料の保全と分散を図りたいと思っています。
イスラム原理主義者の組織はピラミッド型の管理しやすい上意下達の官僚組織ではなく、抵抗力のあるブドウの房型の組織(アルカイーダー)を取っていると言われますが、既にその感覚で資料の保管を含め対抗したいと考えています。
本来、静かに秘かに限られた範囲で継承したいと考えていましたが、どうやらそれは許されないようです。
併設されている現仁神社の意味も少しずつ理解できるようになってきました。
この一年余りで百嶋神社考古学は多くの賛同者を得られるようになってきました。
「古事記」の九割は嘘、「日本書紀」はほんの少しだけ本当の事が書かれている云々は百嶋翁の言いでしたが、それを基礎に、金科玉条の如く振る舞う古代史学会、歴史学会、神代史学会、そして、日本書紀を最高の基準として年代を決定している考古学会の底の薄さに失笑を禁じえないとの思いを深めているこの頃です。

高良大社は福岡県久留米市御井にある。明治以前は高良玉垂宮(たますだれぐう)のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。高良玉垂命を主神とし、相殿に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
仁徳天皇78年(390)鎮座と伝えられ、履中(りちゅう)天皇元年(400)の創建という。嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与された。筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。
神主物部道麿(もののべみちまろ)の子、美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として千余名の僧徒を支配した。
旧国幣大社。現社殿は万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。
みやま市では分社は堀切の「玉垂神社」がある。ほかに大分県日田市十二町・八女郡水田町・大刀洗町・大牟田市岬があり福岡県の筑後地方周辺に点在する。

HPみやま市のお宮(総合編)より

高良玉垂宮(たますだれぐう)と書かれていますが、大阪にも版図を広げた九州王朝のシンボルは住吉神社と打上神社=高良神社ですが、その打上の意味は、御簾のすだれを上げる意味であると百嶋先生は言われていました。
みやま市の地元でも「たまたれ」などとは呼ばず、「たますだれぐう」とされ原形を保たれておられることに改めて敬意を表したいと思います。
そもそも「たまたれ」は日本語の語感としてはおかしく、もしそのように言うならば「たまたらし」が正しいのですが、どうやら「たますだれ」が正しいのです。
事実、現地にはその形式が残されていますし、中国語のターシャン(助動詞になるのですか物事を引き起こす場合には「打」ターが付されます)が打上神社の意味なのです。
まさか、打上神社まで隠せとお達しは出されないと思うのですが…、どうやら日本は第三次世界戦争に巻き込まれる事になりそう(既に入っている)で、何が起こっても不思議ではないようです。
既に戦前の「国体明徴運動」以上の統制下にあるようです。
 今回も間違いなく国民はひどい目にあわされ巨万の富を抱えているにも関わらずアメリカに貢ぎ、フザケタ「絆」キャンペーンだけでたぶらかし東北の民衆を棄民としたのです。真実が知らされなければそれで済むと考えているかのようです。
 このように国民を大切にせず、アメリカに貢いだおこぼれにあずかろうとするさもしい役人だけが得をする(小泉竹中パソナ…)国家はいち早く亡びるべきで、多分今回もそうなることでしょう。
 そのための準備を始め、そうなっても生きて行ける体制を個人で整えるか逃散される事をお勧めいたします。911、311、不正選挙(当方は政治意識が低くないため過去一度も投票した事はありませんが、既に投票率は五割を切り始めており、そうなったらその投票率そのものも偽装造する事になるでしょう)…不正、だまし、棄民…はまだまだ続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:21| Comment(0) | 日記
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