太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年01月31日

040 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? G “籠神社から大江山へ向かう前に”

040 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? G “籠神社から大江山へ向かう前に”
20141122
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


伊勢神宮にはユダヤの神紋が付されているとの話があります。
ただこれについては、遠方の上に内宮と外宮とを繋ぐ道路沿いの境外地のことでもありふれません。
しかし、一例ですが、「ヒストリカル・シェア!」というブログ他に書かれている【真名井神社】(元伊勢「籠神社」の外宮)では、ダビデの星(籠目)から左三つ巴の住吉の神紋に変えられていると言います。

…この石碑には、真名井神社の由緒が彫られているが、建立当初は上部に籠目紋(六芒星)が刻まれていた。
一説によるとこれは籠神社の裏神紋らしいが、籠目紋は「ダビデの星」とも呼ばれ、イスラエルの国旗にも描かれているマークであったため大騒ぎとなったらしい。その紋が描かれていた真相は不明である。…

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【真名井神社】(元伊勢「籠神社」の外宮)より


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上のようなものが堂々と置かれているのですから、その点については全く疑いを持っていません。
むしろ、当方が関心を持っているのは、ダビデ神紋の当否ではなく、「ヒストリカル・シェア!」他が素直に【真名井神社】(元伊勢「籠神社」の外宮)のように、「外宮」と表現されている点です。
同ブログには敬意を表しているのですが、籠神社の(奥の宮)真名井神社が外宮であるというのは本当なのでしょうか?
もしそうであれば、籠神社には元々天照(ここではニギハヤヒかどうかはふれません)が祀られ、真名井神社に豊受大神が祀られていたのでしょうか?真名井神社の縁起には、由緒 座主座(上宮) 豊受大神(亦名天御中主神・国常立尊) 相殿 罔象女命 彦火火出見尊 神代五大神 磐座西座(日之小宮) 天照大神 伊射奈岐大神 伊射奈美大神 祝 部 海部氏 とありますし、次の、籠神社の縁起だけで判断すれば、始めに真名井神社に豊受大神が祀られ、後に天照大神が移り来ることにより与謝宮とされ、この二神が伊勢に移動することから彦火明命を持って籠神社が成立したことになるのです。では、抜け殻なのでしょうか?

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とすると、天火明命彦はどこから来たのでしょうか。
 実は、豊受大神と天火明命彦とはご夫婦であった可能性があるのです。
 もちろん、真名井神社由緒の豊受大神を亦名を天御中主神とするのは誤りと考えています。
 また、縁起に出てこない市杵島姫とニギハヤヒの命がご夫婦のように御守護札に描かれていることについても説明が必要になるでしょう。
 一度には難しいのですが。これらを含めて詳しく考える必要があるでしょう。
 そのためにも、いつものように百嶋最終神代系譜を見て頂きましょう。

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彦火火出見=ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦はスサノウの娘である辛国息長大姫大目命=実はアメノウズメ命(福岡県田川郡香春町の香春神社の主祭神)と夫婦であるばかりでなく、宗像三女神の一人=豊玉姫(タゴリヒメ)とも夫婦でした。 このため、「古事記」と「日本書記」で混乱のあるタゴリヒメと市杵島姫が混同された可能性は捨て切れません。市杵島姫は山幸彦ではなく海幸彦=草部吉見神と夫婦だったのです。神代がスサノウの一族、宗像の三姫君を巡って動いたことが想像できます。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:04| Comment(0) | 日記
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