太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年01月20日

036 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? C “神風の伊勢”

036 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? C “神風の伊勢”

20141121

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

九州でも、直接、伊勢神社などと「伊勢」の幟を上げた神社はそれほど多くは見掛けません。

 しかし、福岡県小郡市の御勢みせ大靈石神社(地元ではお伊勢さんで通っている)や、久留米市大石町の伊勢天照御祖神社、佐賀県佐賀市伊勢町の伊勢神社…と一応在りはするのですが、注意しておかなければ、なかなか頭に浮かんではこないもののようです。

ただ、佐賀市の伊勢神社は伊勢市からの勧請で間違いなさそうですし、久留米市のそれは、真に受ければ別ですが、名前からしても天神ニギハヤヒを祀るものかも知れないのです。

謎は、小郡の御勢大霊石神社に集中しそうですが、付近には伊勢浦、伊勢山といった地名が拾え、伊勢山神社もあることから、もしかしたら、かなりの古社なのかも知れません。

それは、神社縁起がそのままおいそれとは真に受けることが出来ないからです。

以前も触れましたが、唯一、福岡市近郊の糟屋郡久山町の伊野の皇太神宮は本当の天照大御神がかつて居し、今尚、祀られ続けている神社と聞き及んでいるところです(勿論、百嶋由一郎先生からお聴きしたのですが)。

さて、033 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? @ において名をお出しした古田史学の会の水野代表は、伊勢神宮の言わば「元々伊勢」を探して、不知火海の深部、長島の黒ノ瀬戸の内側、鹿児島県の領域に入る伊唐島一帯が、かつて「伊勢」と呼ばれていたことを地元の伝承から拾い出されています。

また、糸島市に編入された旧二丈町の「伊勢浦」地名ばかりでなく、古田武彦氏の「神武歌謡は生きかえった古代史の新局面」でも取り上げられた、糸島市志摩大石地区(久留米市の大石と関係なしとはしない)にも伊勢神社の痕跡があることから、どうも、不知火海の入口から久留米市、小郡市、佐賀市、糸島市…と、台風の通り道に「伊勢」地名、伊勢神社が置かれ、海が静まるのを願った原始信仰のようなものも観て取れるのですがこれで良いかは自信がないところです。

「日本書紀」の“龍田の神を立野に祀る”(この話も風の吹かない奈良盆地などでは決してなく、熊本県熊本市の龍田山と阿蘇の立野の大峡谷が舞台であることは古田史学の会の正木 裕氏が展開された通りだろうと考えています)と同じ印象を受けるのは私だけでしょうか?

以下は“神風の伊勢“に関する九州王朝論者のブログです。参考にして下さい。


古事記のリアルな解明U

ブログ「古事記のリアルな解明」http://blogs.yahoo.co.jp/kamuiwakka128の追加篇です

29 元・神風の伊勢の海照大御神」より


古田武彦先生の講演を聞いて、神武の“クジラ障さやる”の久米歌が、宇田川原の糸島半島の古い歌謡であることが分かったのだが、その久米歌の中の、

「神風かむかぜの 伊勢いせの海の 大石おほいしにや い這ひ廻もとほる 細螺しただみの 撃ちてし止まむ」というこの歌も、北部九州の糸島半島の前原市(九州王朝・伊都)の場所の歌だ。

 前原市の西に、加布里かふりの港がある。そこは、神在かみありという場所でもあって、なんと神在=伊勢田いせだなのだ。そこには、大石おおいしという場所もある。

 つまり、神武の久米歌の「神風の伊勢の海の大石」という場所は、その場所なのだ。さぁ、北部九州の糸島半島の前原市の港である加布里・神在が、元・伊勢であり、糸島湾(加布里湾)が、元・伊勢湾だったとしたら、どういうことになるのかというと、ついに謎の大御神=天照大御神のことが分かるのだ。


   糸島半島    博多湾

(元・伊勢湾)加布里港  前原市   福岡市西区

       大石 伊勢田    

     神在(宮地岳神社)    宇田川原

      細石神社

      三雲井原  伊都城


 つまり、そもそも「伊勢いせ」とは、何かというと、伊い=東夷い=委(倭)いの瀬せ(浜)だ。伊都いとは、東夷・倭いの都だ。故に、伊勢いせとは、伊い都国の瀬せ=加布里の港のことだ。五十鈴いすずというのも、伊い都国の港町・加布里の町は人々の住居が鈴すずなりに建ち並んでいたということだ。

 徐福=イザナギに始まる九州王朝(倭国)は、最初、糸島半島・現前原市に拠点した。糸島半島(伊都国)というのは、韓半島→対馬→壱岐→糸島半島という場所なのだ。古代から、日本列島と韓半島・大陸中国を結ぶ入口の場所なのだ。決定的な場所なのだ。

 糸島半島を抑えているということが、日本列島全体を押さえている、ということだったのだ。何故か。韓半島・大陸中国からの文明を、一早く自分のものにできる。日本列島の中で一番の先進地でありうる。そしてさらには九州王朝は、逆に韓半島南部に侵攻して、対馬の対岸の加羅に領地さえ持っていた。

 九州(筑紫)王朝というのは、朝鮮海峡・玄界灘の古代からの文明ルートを抑えていた故に、日本列島と韓半島南部に君臨していた王朝なのだ。だから、天津あまつ=海津あまつと称しているのだ。日本中に海があっても、文明渡来の“ザ・海”と称することのできる海は、朝鮮海峡・玄界灘の海なのだ。

 文明が渡って来る海、その海のルートの、その糸島半島の湾の港が、加布里港だ。そこが、元・伊勢(倭い=伊都の瀬)だ。そして、そこに元・天照大御神が居る。

 その場所が、加布里の神在・伊勢田であり、その元・天照大御神=海照大御神あまてらすおおみかみが祭られていた元・伊勢神社が、宮地岳神社だ。神在とは、ザ・カミサマ(最高神)である天照大御神=海照大御神だ。

 だから、なぜ「神風かみかぜの伊勢」なのかというと、神風=貿易風・交易風が順調なら良い交易ができて国が栄える、ということだ。

 “神風の伊勢”という表現は、旧来は“神風の”は伊勢に掛かる枕詞まくらことばだ、どうしてそうなのかの理由は分からないが、だった。誰も、なぜ“神風の伊勢”なのか、分からなかった。三重県の現・伊勢湾には別に特別な季節風が吹くわけではないから。

 そして、伊勢に祭られているのは日本の最高神・天照大御神なのだから、イザという時には神風を吹かして、悪しき敵から日本を守ってくださるんだ、といった信仰・幻想が起きてしまった。なにせ、“神風の伊勢→撃ちてしやまん”というのだから。

 実際に、鎌倉時代の元寇で、偶然にも台風が元の大軍を撃破したことが、神州不滅・皇軍不敗、イザという時は(天照大御神の)神風が吹いて敵をやっつけてくださるんだという、信仰・幻想を日本人は本気にしてしまった。だが、第二次世界大戦・太平洋戦争の時は、ついに神風は吹かなかった。

 神風の伊勢の、元プロトの意味が九州王朝の糸島半島の加布里の港にあることが分かると、アマテラス大御神=海照大御神であって、文明の海の交易で、自分たちが貿易風の風を見究めることによって、つまり良い風を掴むことによって、自分たちが豊かな交易の利益を掴むことができるからこそ、自分たちに順風の風が吹くのだ、それが本当の神風だ、ということが判明する。

 神風の伊勢とは、決して、天上の神様が、日本国・日本人の国難の時に、悪しき敵に逆風を吹かせてやっつけてくださる、といった意味・内容ではなかったのだ。

 神風が、特別な風であるところは同じだが、元々の意味が自分たちが交易風を捉える能力を発揮することで利益が生まれるという主体性の内容だったのに対して、その元々の意味が分からなくなってからの幻想の方はただの神頼みに落ちてしまったのだ。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:12| Comment(0) | 日記
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